
もう戻らない――あなたの妻には
章 2
翌日。
市役所の駐車場。
陸名悠弥はマイバッハの運転席で、左手の指で軽くハンドルを叩いていた。
「悠弥、あなたと恋ちゃんが結婚してもう一年になるんだから、そろそろ子供のことを真剣に考えなさい」 スマートフォンのスピーカーから、老婦人の声が響く。
悠弥は表情を和らげ、やれやれといった風情を浮かべながらも、辛抱強く応じた。
「おばあちゃん、俺たちはまだ若いですから、焦る必要はありませんよ。それより、今はご自身の体を大切にしてください。おじいちゃんのことも……」
「焦る必要がないなんて、そんなわけないでしょう?」 老婦人は悠弥の言葉を遮った。「おじいちゃんもだいぶ良くはなったけれど、私たちももう歳なのよ。いつお迎えが来たっておかしくないんだから」
「おばあちゃん……」
「言い訳は聞きません」老婦人の声が厳しくなる。「変な噂も私の耳に入ってきてるのよ。恋ちゃんをいじめるようなことだけはしちゃいけないよ」
悠弥は三秒ほど黙り込んだ。
「聞こえているのかい?」と祖母に促され、ようやく眉間を揉みながら答えた。
「……わかっています、おばあちゃん」
さらに二、三言言葉を交わした後、悠弥は通話を終えた。
指は依然として無意識にハンドルを叩き続けている。悠弥は、すぐそこに見える市役所の建物に視線を向けた。
唇が固く結ばれる。
彼はスマートフォンのメッセージリストを開いた。
指が『我が愛』と登録されたフラワーアーティストのアイコンを撫でるように滑り、その下にある『時水恋』のトーク画面を開いた。
最後のメッセージは、今朝、離婚届を提出するために市役所で会う時間と場所を告げたものだった。
彼女はまだ来ていない。
わずかに眉をひそめ、彼はメッセージを一本送った。
陸名悠弥:【どこだ?】
その直後、コンコン、と運転席の窓が鳴った。窓の外には、少し青ざめた時水恋の顔があった。
恋はドアを開けて助手席に乗り込んだ。
彼女は悠弥を一瞥した。
彼が着ているのは昨日と同じ服。彼女がコーディネートしたものだった。
この数年間、彼のすべては彼女が準備したものだった。香水やネクタイといった小物から、オーダーメイドのシャツやスーツに至るまで、すべてが彼女の手によって整えられてきたのだ。
「どうしてこんなに遅いんだ?」と彼が問う。
恋は視線を逸らした。
「遅れてないわ」と彼女は答える。
ただ、以前のように、彼のたった一言のために、馬鹿みたいに早くから待ちわびているようなことはしなかっただけだ。
悠弥の無意識のタッピングが、一瞬だけ止まった。彼は眉をひそめて彼女に視線を向ける。
顔色が悪い。昨夜、離婚話を切り出したせいで眠れなかったのだろう。
まあ、大したことではない。
「さっき、おばあちゃんから電話があった」 悠弥は視線を前に戻して言った。「俺たちの離婚のことは、ご老人たちには絶対に言うな。もう歳なんだ、そんな刺激には耐えられない」
恋はすぐには答えず、ただ問い返した。「おばあちゃんは、電話でなんて?」
「子供を催促された」悠弥は目を細め、その声には隠しきれない苛立ちが滲んだ。
そして、長い沈黙が車内を支配した。
数分が経っただろうか。やがて、恋はふっと軽やかな笑い声を漏らした。
悠弥は左手を拳に握りしめ、窓の外を睨んだまま黙り込んでいる。
自分の子供がどんな顔をして、いつ生まれてくるのか、考えたことがなかったわけではない。
恋と体を重ねている時、彼女の腹を撫でながら、耳元で囁いたこともあった。「恋、いつになったら俺の子供を産んでくれるんだ」と。
ただ……
どうせ彼女は妊娠などしていない。
半年後には再婚するのだ。その時でも遅くはない。
静の命は、あと半年しかないのだから。
車の外を、人々が行き交っている。さらに三秒ほどの時が過ぎた。
恋が口を開いた。「最後にもう一度聞くわ、悠弥。本当に、私と離婚するの?」
「後悔し始めたのか?」今度こそ、彼は本気で苛立ちを露わにした。
家では、静が彼を待っているのだ。
彼の確固たる意志を改めて確認した恋は、もう何も言わず、ただ一枚の書類を取り出して悠弥に差し出した。
悠弥は眉をひそめながらそれを受け取る。財産分与の合意書だった。
「離婚するからには、はっきりさせておきましょう」
彼女は言った。「陸名家の財産は、私が受け取るべき正当な分だけをいただくわ」
「離婚のクーリングオフ期間中、それぞれが稼いだお金は、それぞれのものとする」
そう言うと、恋はペンを取り出し、彼のそばに置いた。
「問題がなければ、サインして」と彼女は言った。
読み進めるほどに、悠弥の眉間の皺は深くなる。
定型的な契約書は簡潔で、確かに彼女は不当な要求をしていなかった。彼女の署名欄には、すでに『時水恋』という名が記されている。
彼には、彼女の意図が理解できなかった。
これはただの偽装離婚だ。こんな契約書が、一体何のために必要なのか?
浅井静の余命はあと半年。
彼女の最期を見届けた後には、また以前のように、祖父母に見守られながら彼女と共にいるはずだった。
陸名悠弥の思考の中で、時水恋は常に、彼なしでは生きていけない存在だった。
彼女の限界は、驚くほど低い。
かつて彼は彼女にうんざりし、わざと自己を放棄させるようなことをさせたことがあった。
彼女は、一度も拒まなかった。
それどころか、最後にはその結果を手に彼の前に現れ、満面の笑みでこう言ったのだ。「悠弥、見て。できたわ。すごいでしょ?」と。
彼女は従順な結婚相手だった。7年間、彼はそのことを何度も確かめてきた。
もし、浅井静がいなければ、彼の結婚生活は、おそらくこのまま何事もなく続いていっただろう。
しかし……
脳裏に、血を吐きながらも、悲痛なほど頑なな表情を浮かべていた静の顔が浮かぶ。胸が張り裂けるような痛みに襲われた。
悠弥は、傍らの車の窓に目をやった。
窓には、何の感情も浮かんでいない恋の顔が映っている。
彼女は、彼を脅迫するつもりか?
そういえば、彼女は以前、偽造した記録を使って浅井静を陥れようとしたことがあった。
彼女は、静を憎んでいる。
フン……
彼はペンを手に取った。
陸名悠弥は、自分の署名欄にその名を書き殴った。
(誰も俺を脅迫することなどできない!)
契約書は二部作成された。
恋は自分の分を手に取った。
そして。
車を降りる。
番号札を取る。
書類を提出する。
『離婚届』に記入する。
それぞれが『離婚届受理証明書』を受け取り、クーリングオフ期間が終われば、再びここへ来て離婚届を受け取ることになる。
一連の手続きを終え、二人は市役所の外に出た。
太陽は、すでに高く昇っていた。
陽光が恋の体に降り注ぎ、暖かな光で包んでいる。
悠弥は、行き交う人々を眺めていた。
結婚する者と、離婚する者。見た目だけで、はっきりと区別がつく。
一組の夫婦が、手を繋いで出てきた。
女性の顔には、甘い笑みが浮かんでいる。
彼はふと、一年前に婚姻届を出しに来た時、恋もあんなふうに笑っていたことを思い出した。
悠弥は、隣の恋にちらりと目をやる。
彼女の顔には、相変わらず喜びも悲しみもなかった。
「離婚している間も、君のカードには金を振り込む」 彼は言った。「俺たちの離婚のことは、絶対に老人たちに言うな」
そう言い終えると、彼女の返事を待つこともなく、彼は背を向けて歩き去った。
彼女は、彼の車が角を曲がって見えなくなるまで、その場で見送っていた。
やがて、彼女が呼んだタクシーも到着した。
二台の車は、全く逆の方向へと走り去っていく。
一台は、ビビアンのフラワーアトリエへ。
もう一台は、A市立病院へ。
陸名悠弥がフラワーアトリエのドアを開けると、浅井静が笑顔で彼を迎えた。
彼は離婚届受理証明書を取り出し、静に見せながら言った。「手続きは済んだ。彼女はたいしてごねなかったよ」
同時刻。時水恋は予約番号を手に、産婦人科の診察室に入っていた。
医師の向かいに腰を下ろす。
カーテンが引かれた。
「恋、本当にこの子を堕ろすつもりなの?」
医師であり、親友でもある小林澄玲が、心配そうに尋ねた。「あなた、ずっと妊娠したいって言ってたじゃない。 この間まで、私のところで体質改善の相談もしてたのに」
恋は、傍らのテーブルに離婚届受理証明書を置いた。
「ええ」 恋は静かに言った。「堕ろして。もう、いらないわ」
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