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もう戻らない――あなたの妻には の小説カバー

もう戻らない――あなたの妻には

昼夜を問わず深い愛情を注いでくれる夫・陸名悠弥を、時水恋は心から信頼していた。しかし、そんな穏やかな日常は、悠弥の元恋人である浅井静が余命宣告を受けたことで無残に崩れ去る。悠弥は「死にゆく彼女を安心させたい」という身勝手な理由で、半年間の期間限定という条件付きの離婚を恋に突きつけた。復縁を前提とした一時的な別れだと信じて疑わない悠弥に対し、裏切られた恋の心は完全に冷め切ってしまう。枯れるまで涙を流した彼女は、腹に宿した命を断ち切り、彼との過去をすべて捨てて人生をやり直す決意を固めた。偽りのはずだった離婚届は、取り返しのつかない永遠の別離へと変わる。恋が二度と振り返ることなく彼の前から姿を消した一方で、残された悠弥は自らの過ちに気づき、次第に正気を失っていく。かつて傲慢不遜を極めた陸名家の御曹司が、血走った目で愛車のマイバッハを走らせ、執拗に彼女の影を追い求める姿が各地で目撃されるようになった。すべてを失った彼は、ただ一度、彼女からの憐れみに満ちた視線を得るためだけに、狂気の中で彷徨い続けるのだった。
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3

小林澄玲は、目の前にある離婚届の受理票に驚きの目を向けた。

二人は十数年来の親友だ。恋がどれほど陸名悠弥に夢中だったか、澄玲はずっとその目で見てきた。

かつての恋は、悠弥のためなら本当に命さえ投げ出しかねないほどだった。

一年前に二人が結婚したとき、澄玲はため息をつきながらも、親友がようやく想いを遂げたことを喜んだものだ。

それなのに、今となっては……

いったい何があったというのだろう。

「もう、愛していないの」澄玲が問いかけるより先に、恋が口を開いた。

彼女は澄玲を見つめ、そっと口角を上げてみせる。その笑みは、どこか吹っ切れたように美しかった。

その笑みに、澄玲はかつての姿を幻視した。時水家が盤石で、父親も健在で、そして恋が誰にも尊厳を踏みにじられることのなかった、誇り高きお嬢様だった頃の面影を。

それを見て、澄玲は腑に落ちた。

「妊娠のことは、陸名悠弥には話していないの」 恋は言葉を続ける。「30日間の熟慮期間中に、余計な問題は起こしたくない。だから、黙っておくのが一番いい」

30日間の離婚熟慮期間中は、どちらか一方が望めば申請を撤回でき、婚姻関係は継続される。

その言葉で、澄玲は恋が本気で別れる覚悟を決めたのだと悟った。

事情を理解した澄玲は、まず恋に必要な検査項目を指示し、それから言った。「恋、手術は数日待たないとだめね」

「どうして?」恋が不思議そうに訊ねる。

「知ってるでしょ」と澄玲は答える。「あなたは特殊な血液型だから、万が一に備えて輸血用の血液を確保しておかないと。血液バンクには連絡したから、一週間もあれば取り寄せられるはずよ」

恋は一瞬、言葉を失った。瞳の奥に悲しみがよぎる。

その特殊な血液型は、父親から受け継いだものだった。

また、父に会いたくなる。

もし、父がまだ生きていてくれたなら……

「うん」 恋は胸に込み上げる感情を押し殺し、潤んだ瞳で微笑んで頷いた。

「それから、少し流産の兆候があるわ。ここ数日は絶対に無理しないでね」

澄玲は、痛ましげな眼差しで恋を見つめる。

幼い頃から共に育った親友の悲しみは、痛いほど伝わってきた。

澄玲は恋の手を握りしめ、言った。「少し待ってて。今日のシフトは午前だけだから、もうすぐ終わるの。そしたら一緒に帰りましょ」

恋は頷き、外の廊下で澄玲を待つことにした。

そっと自分のお腹に手を当てる。

流産の兆候。

(お腹の子は、私の決心を知って、自ら先に逝こうとしているのだろうか?)

恋は唇をきゅっと引き結ぶと、検査指示書を手に他の検査室へと向かった。

ブブッ――

携帯が震え、銀行口座への入金を知らせる通知が表示された。

これは離婚の熟慮期間中に、陸名悠弥との財産を明確に分けるために新しく開設した口座だ。

今後の収入は、すべてここに入金されることになっている。

入金通知と同時に、別のメッセージが届く。

【作詞作曲の報酬、経理から振り込んでおいた。確認してくれ】

陸名悠弥と結婚する前、時水恋は作曲家として活動していた。

音楽を愛するようになったのは、父がまだ健在だった頃に遡る。時水家のお嬢様として何不自由なく育ち、教養の一環として音楽教育を受けたのだ。

その後の波乱万丈な人生は、彼女に深い洞察を与えてくれた。

父もまさか、かつて娘の趣味として与えた音楽の才能が、彼の死後、娘の生きる術になるとは夢にも思わなかっただろう。

少し考えた後、恋は返信した。【受け取ったわ、ありがとう】

すぐに返信が来る。【君の実力からすれば当然の報酬だ。正直なところ、君がここ数年で生み出してきたヒット曲は数知れない。本当に表舞台に出る気はないのか? 実は、君にぴったりの番組があるんだ。詳細はメールで送っておいたから確認してくれ。特別推薦枠を一つ、君のために確保しておく】

恋がメールボックスを開くと、そこには音楽コンテスト形式のバラエティ番組の企画書があった。ルールはシンプルで、過去に見たことがあるような音楽番組と大差はないが、高いオリジナリティが求められる内容だった。

【少し考えさせて】恋はそう返信すると、携帯電話を置いた。

その時、下腹部にずきりとした痛みが走る。

また、父のことを思い出していた。

今日、父を想うのは、これで二度目だった。

……

その頃、インターネット上では、いくつものニュース速報がトレンドを席巻していた。

#浅井静、胃がん#

#著名フラワーアーティスト浅井静、命のカウントダウン#

#人生最後の半年、浅井静は笑顔で病魔と向き合う#

……

最も注目を集めている記事は、次のような内容だった。

――【……本誌の取材により、著名フラワーアーティストの浅井静さんが胃がんを患い、余命半年であることが明らかになった。しかし彼女は病に屈することなく、残された半年間のすべてをSNSで発信していくという。まさに、死へのカウントダウンがリアルタイムで綴られるのだ】

映像の中で、浅井静は痛々しい笑みを浮かべ、カメラに向かって語りかける。「残されたこの半年間、私の経験をすべてネットで共有しようと思います。特別な意図はありません。ただ、私と同じように病と闘う方たちの、ささやかな心の支えになれたらと……皆さんが一日も早く回復されることを願っています」

再び記者が画面に映る。「浅井さんと陸名グループの陸名社長には、以前からいくつかの噂がありました。しかし、陸名社長は既婚者です。果たして、社長が現実世界で、失った愛を取り戻すための壮絶なドラマを繰り広げることになるのでしょうか」

その記者の存在に気づいたのか、浅井静は笑顔で歩み寄り、礼儀正しく言葉を遮ってマイクを向けさせた。

そして、まっすぐにカメラを見据える。

「私が悠弥のことを好きなのは事実です。それを隠すつもりはありません」

「あれほど素敵な方ですもの、彼に想いを寄せるのは、きっと私だけではないはずです」

「でも、これだけははっきりさせておきたい。私は、誰かの家庭を壊すような真似は絶対にしません。それが、私という人間の矜持です。ありがとうございました」

……

そう言い残すと、静は画面から姿を消し、後に残された記者が報道を続けた。

彼女は人垣を抜け、待たせていた車に乗り込むと、そこで初めて勝利の笑みを浮かべた。

隣に座っていたN国から呼び寄せたという“専属ヘルパー”が、白湯を差し出しながら、ためらいがちに口を開いた。

「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどう?」静は冷ややかに言い放つ。「運転手は身内だから、心配いらないわ」

それを聞いて、ヘルパーはようやく声を潜めた。「浅井さん、あなたの診断はただの胃潰瘍です。それを私たちの療養院に依頼して胃がんだと偽装させただけでも大きなリスクなのに、どうしてネットで公表までするのですか?」

静は、わけが分からず戸惑う“ヘルパー”を鼻で笑った。

「あなたのところは医療機関でしょ?」彼女が尋ねる。

ヘルパーは頷く。

「私のカルテは、そちらで独立して管理されている?」

ヘルパーは再び頷く。

「そして、そのカルテには、末期の胃がんで余命半年と記録されている。そうよね?」

三度目の問いに、ヘルパーは一瞬ためらったが、やがてこくりと頷いた。

「だったら、何の問題もないじゃない」 静は勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。「これが『真実』よ。誰に調べられたって、怖くも何ともないわ」

「しかし、実際にはがんでない以上、いずれは……」

「解決策は二つある」 静は、警告するようにヘルパーを睨みつけた。

「一つ。今後、私があなたの療養院や他の病院を転々としながら治療を続け、やがて『愛の奇跡』で完治する」

「二つ。あなたの病院が誤診したことにする。これは立派な医療過誤よ。私は長期間、不必要な治療で苦しめられたと訴えることになるわ」

静の表情が、あからさまな脅迫の色を帯びる。「さあ、どちらの結末がお好み?」

ヘルパーの顔から血の気が引いた。そして、絞り出すように言った。「申し訳ありません、浅井さん。私の考えが浅はかでございました。すべて、あなたの仰る通りです」

静は、ふんと鼻を鳴らした。

「浅井さん、次はどちらへ向かいますか?」 気まずい沈黙を破るように、ヘルパーが尋ねた。

静は、気だるげにスマートフォンを眺めながら答える。「A市立病院よ」

「しかし……」とヘルパーが慌てる。

「カルテを見せて、痛み止めを処方してもらうだけ。何をそんなに緊張しているの?」 静は悠弥に、後で病院まで迎えに来てほしい、とメッセージを送る。

すぐに返信があった。

【わかった】

そして、ちょうどその頃。恋は、同じ病院のトイレで、下腹部に走る疼きに耐えていた。その手に握られた紙には、鮮血が付着していた。

流産の兆候だった。

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