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もう戻らない――あなたの妻には の小説カバー

もう戻らない――あなたの妻には

昼夜を問わず深い愛情を注いでくれる夫・陸名悠弥を、時水恋は心から信頼していた。しかし、そんな穏やかな日常は、悠弥の元恋人である浅井静が余命宣告を受けたことで無残に崩れ去る。悠弥は「死にゆく彼女を安心させたい」という身勝手な理由で、半年間の期間限定という条件付きの離婚を恋に突きつけた。復縁を前提とした一時的な別れだと信じて疑わない悠弥に対し、裏切られた恋の心は完全に冷め切ってしまう。枯れるまで涙を流した彼女は、腹に宿した命を断ち切り、彼との過去をすべて捨てて人生をやり直す決意を固めた。偽りのはずだった離婚届は、取り返しのつかない永遠の別離へと変わる。恋が二度と振り返ることなく彼の前から姿を消した一方で、残された悠弥は自らの過ちに気づき、次第に正気を失っていく。かつて傲慢不遜を極めた陸名家の御曹司が、血走った目で愛車のマイバッハを走らせ、執拗に彼女の影を追い求める姿が各地で目撃されるようになった。すべてを失った彼は、ただ一度、彼女からの憐れみに満ちた視線を得るためだけに、狂気の中で彷徨い続けるのだった。
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A市、山麓の別邸、寝室。

シーツの波が乱れ、情交の熱が部屋を満たしていた。男は夢中で女の胸元にある黒子に唇を寄せている。

行為が終わると、陸名悠弥はすっと身を起こした。

「離婚しよう」 その声に、感情の揺らぎは一切なかった。

昂りの余韻で、時水恋の息はまだ少し弾んでいる。

彼女はゆっくりと向き直り、彼の底の知れない瞳を戸惑いながら見つめた。

結婚して一年。彼が何を言っているのか、理解が追いつかない。

「彼女は胃癌なんだ。余命は半年」

悠弥は一本の煙草に火をつけた。ゆらりと立ち上る紫煙が、彼の横顔を曖昧にぼかす。

「死ぬ前に、俺の妻になるのが彼女の唯一の願いらしい」

恋は何も言えなかった。広大な寝室は、しんと静まり返っている。

ベッドサイドの小さなランプが灯り、二人の影が壁に映し出される。すぐそばにいるはずの二人の距離は、ひどく遠く引き伸ばされていた。

彼女がすぐに頷かないのを見て、彼はわずかに眉をひそめた。

「彼女を安心させるためだ」

彼は言った。「半年後には、また再婚する」

「時水恋、彼女に残された時間は半年なんだ」

彼の声はあまりに平坦で、まるで決定事項を通知しているかのようだった。

恋は、彼の横顔を呆然と見つめる。

まるで彼の要求はすべて、彼女が受け入れなければならない絶対の命令であるかのように。

彼が口を開けば、彼女は勅令に従うがごとく、その通りにしなければならないのだ。

そう、二人の関係は、彼女の献身――いや、卑屈ともいえるほどの執着の末に、ようやく掴んだものだった。

少女時代の、淡い憧れ。

大人になってからは、ひたすら彼の背中を追いかけ続けた。

あの土砂降りの日、彼は彼女の前に立ちはだかり、腐りかけの木の棒を手に、命がけで彼女の継父に言い放った。「お前がもう一度、時水恋を傷つけようものなら、ただじゃおかない!」

半殺しにされていたあの夜、叩きつける雨と血の赤に染まる視界の中で彼女が見たのは、木の棒を握りしめて白くなった彼の指の関節と、嵐の中の氷のように冷たく、揺るぎない眼差しだった。

彼は、彼女の命の恩人だ。

だから、どうしようもなく彼を愛してしまった。

彼の要求なら、どんなことでも、命がけでやり遂げた。誰よりも完璧に。

彼はいつも、事が終わると彼女の頭を撫で、「恋、よくやったな」と静かに褒めてくれた。

その言葉も、キスも、いつも淡白で、二人の関係が常に穏やかであったとしても。

彼女は、それが彼の生来の性格なのだと信じていた。

だから、たとえ周りから「犬みたいだ」と揶揄されようと、甘んじて受け入れていたのだ。

七年間。青春のすべてを、彼を追いかけることに費やした。

一年前、陸名家の当主である祖父の病状が急変し、縁起担ぎに彼を結婚させようという話が持ち上がった。

彼は彼女を探し出し、市役所に連れて行って婚姻届を提出した。

長年の想いがようやく実を結んだのだと、彼女は信じていた。だが結婚後、彼はつかず離れずの態度をとり、今では彼女に対する嫌悪さえ感じられるほどだった。

「時水恋、聞いているのか?」

彼女が上の空であることに気づいたのか、彼は眉をひそめてこちらを見た。

「どうしても、そうしなきゃいけないの?」と彼女は問う。

彼は直球の問いには答えず、話を逸らした。「時水恋、彼女は可哀想な人なんだ」

「じゃあ、私は?」思わず口から言葉がこぼれた。

彼はすぐには答えず、その深い瞳の奥に、わずかな苛立ちを滲ませた。

三秒ほどの沈黙の後、彼は再び口を開いた。

「彼女はもうすぐ死ぬんだ」

「知らないかもしれないが、彼女は俺を愛している。だが、俺たちの婚姻関係があるから、君を傷つけたくないと、一線を超えることはなかった」

「俺が何かを与えようとしても、彼女はいつも断るんだ」

「彼女はとても善良な人だ。だから、君が譲ってやってくれ」

「時水恋、俺にお前を意地の悪い女だと思わせないでくれ」

彼の声は氷のように冷たく、彼女の心はナイフで切り裂かれるようだった。

既婚者の男と関係を持ち、偽善的な言葉を二、三口にすることが「善良」だというのなら。

妻が夫を譲ることを拒むのが、「意地が悪い」ということになるのなら。

彼女は、何年も前から少しも変わらない彼の顔を見つめた。

彫りの深い眉目、筋の通った鼻、剣の刃のように鋭い薄い唇。

いつから、彼は変わってしまったのだろう。

おそらくは、「彼女」が現れた、その日から。

「本当に、離婚するの?」彼女は最後の問いを投げかけた。

彼は答えず、唇を一直線に固く結んでいた。

やがて、その薄い唇がわずかに開く。

彼は言った。「ああ。君は……」

「わかった」

彼の言葉を遮るように、彼女は同意した。

彼は一瞬、虚を突かれたようだった。

目を細め、値踏みするような視線で彼女を見る。

「時水恋、ずいぶん偉くなったものだな」

その口調には、珍しく怒りの色が混じっていた。

「俺が君の同意を必要としていることを見越して、脅迫するつもりか?」

恋は何も言わず、ただ、白い壁に映る二人の影を静かに見つめていた。

悠弥は手の中の煙草を灰皿に押し付け、それ以上は何も言わず、急いで服を着ると、足早に部屋を出て行った。

彼女がどう思うかなど、まるで気にかけていないようだった。自分が提示した要求がどれほど屈辱的で、受け入れ難いものであるかにも、無関心だった。

彼は知っているのだ。彼女が自分から離れられないことを。

長年、ずっとそうだったのだから。

「バン!」

悠弥はドアを荒々しく閉めて出て行った。

寝室に、恋が一人残される。

彼女は、彼が閉ざしていったドアを静かに見つめていた。

ベッドの縁に腰掛けたまま、長い時間が過ぎていく。

ブーン、ブーン。

スマートフォンの振動が静寂を破った。

誰かからメッセージが届いたようだ。

彼女は手を伸ばし、スマートフォンを手に取る。

連絡先の名前は「彼女のサブアカウント」。その人物からのメッセージだった。

【また彼が会いに来てくれた】

添えられていたのは、玄関のガラスに映り込んだ陸名悠弥の横顔を捉えた一枚。

その顔には春の日差しのように穏やかな笑みが浮かび、瞳には、彼女が一度も見たことのない優しさが宿っていた。

指が、一瞬だけ止まる。恋はメッセージ履歴を上にスクロールした。

一つ前のメッセージは、【彼は心の中に私がいるって言ってた】

その前は、【雨の夜は冷える? 私は寒くないわ、彼がそばにいてくれるから】

さらにその前は、【愛されていない方が第三者なのよ、時水恋。あなたは彼が縁起担ぎのために仕方なく選んだだけ。彼は私の美的センスを評価し、私の趣味を認めてくれる。彼が愛しているのは、私】

……

このようなメッセージは、数えきれないほどあった。

一つ一つが、一滴一滴が、彼が彼女を裏切っていた証拠だった。

七年間、自分にはいつも淡々としていた陸名悠弥が、別の女の前では……

あんなにも生き生きとした表情を見せるなんて、知らなかった。

最後までスクロールしても、もはや彼女はその内容を見てはいなかった。ただ機械的にすべての記録をたどり、最初のメッセージで指を止める――【私が誰だか、わかるでしょ?今日のリビングの花、きれいだった? 私が贈ったの。彼、とても美しいって言ってたわ】

ふ……

誰かなんて、もちろん知っている。

富裕層の別邸や高級マンション専門のフラワーコーディネートで有名な、人気のフラワーアーティスト、浅井静。

恋は以前、これらの記録を悠弥に見せたことがあった。だが彼は、これが浅井静からのメッセージだという証拠がないと言い放った。

それどころか、彼女がサブアカウントを使って自作自演し、浅井静を陥れようとしているのではないかと疑ったのだ。

なぜなら、これまでのメッセージには写真がほとんどなく、あったとしても、第三者が容易に撮影できるようなものばかりだったからだ。

今日の一枚を除いては。

これを、悠弥に見せるべきだろうか?

スマートフォンを傍らに放り投げ、恋はベッドサイドテーブルの一番下の引き出しから、一通の書類を取り出した。

中から現れたのは、今日の昼過ぎに受け取ったばかりの、妊娠証明書だった。

彼女は、陸名悠弥の子を宿していた。

最悪の、タイミングで。

涙が書類の上に落ち、インクを大きく滲ませた。

彼の心は、とっくに自分のものではない。今さら何を証明したところで、何になるというのだろう。

涙を拭う。

恋は、悠弥が煙草の火をつけたライターを手に取り、書類に火を点けた。

彼は知らないだろう。離婚は、彼女が彼の要求に応える、最後の機会だということを。

七年という青春。七年という歳月。

彼への恩は、もう十分に返した。

だからもう――彼を愛するのは、やめよう。

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