
私は、億万長者の後継者を一晩で手に入れました
章 3
ブリーフィングルームのドアを開けようとした瞬間、背後から聞き覚えのある吐き気を催すような声がした。
「静」
振り向くと、藤井拓海が立っていた。
きっちりと着こなした商社のスーツ。手にはスターバックスのカップを持っている。
彼は静の前に立ちはだかり、行く手を塞いだ。
静の脳裏に、昨夜の駐車場での醜態が蘇る。
胃が痙攣し、無意識に半歩後ずさった。
「昨日のことは誤解なんだ。千夕が無理やり……俺は酔っていて……」
拓海は悲劇の主人公のような顔で、静の手首を掴もうとする。
静は汚いものでも払いのけるように、その手を避けた。
拓海の顔に気まずそうな色が浮かぶ。
彼は声を潜め、懇願するような口調から責めるような口調へと変えた。
「だいたい、静がいつも仕事仕事で俺を放っておくからだろ。俺だって男なんだ」
その身勝手な言い訳に、静の中で何かがぷつりと切れた。
怒りで目の前が真っ赤になる。
手の中のスーツケースを、この男の顔面に叩きつけてやりたい衝動を必死で抑え込んだ。
「あなたって、本当に最低な人間なのね」
静は氷のように冷たい声で言った。
「婚約は破棄します。その女と、私の前から消えて」
「なっ……」
拓海は信じられないという顔で目を見開いた。
いつも従順で、何を言っても許してくれると思っていた女からの、あまりに決然とした拒絶。
二階のVIPラウンジ。
暁はモニターに映る二人のやり取りを、不機嫌極まりない顔で見ていた。
手に持っていたコーヒーカップを、ガチャンと音を立ててソーサーに置く。
「林。空港の警備に連絡しろ。クルー専用通路で、不審者が従業員に嫌がらせをしていると」
階下の廊下では、拓海が逆上していた。
彼は静の肩を掴み、無理やり抱きしめようと腕を伸ばす。
静が悲鳴を上げかけたその時。
「お客様、ここは立ち入り禁止です」
屈強な体格の警備員二人がどこからともなく現れ、拓海の両腕をがっちりと掴んだ。
「離せ!俺は彼女の婚約者だ!」
拓海の惨めな叫びも虚しく、彼は為す術もなく引きずられていく。
静はその無様な後ろ姿を、何の感情も浮かばない瞳で見送った。
心にあったのは憎しみではなく、ただ解放されたという安堵感だけだった。
静は乱れた制服の襟を直し、ブリーフィングルームのドアを開けた。
部屋に入った途端、それまでのざわめきが嘘のように静まり返る。
全員の視線が、突き刺さるように静に集中した。
「小林。三分遅刻だ」
乗務長の吉田健一が、腕の時計を睨みつけながら言った。
その顔は、まるで鬼の形相だ。
「申し訳ありません」
静は深く九十度に頭を下げた。
言い訳は一切しない。
それが、この縦社会で生き抜くためのルールだった。
最前列に座っていた沢村千夕が、わざとらしく大きなため息をつくのが聞こえた。
彼女は隣の同僚に、ひそひそと何かを囁いている。
静の視界の端に、千夕の首筋に付けられたいやらしい赤い痕が映った。
昨夜の拓海との情事の痕跡だ。
静は再び拳を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
「遅刻により、今月の評価からマイナス二点とする」
吉田の冷徹な声が響く。
静は歯を食いしばり、もう一度頭を下げた。
そして吉田は、追い打ちをかけるようにフォルダを開いた。
「それから、本日付でパリ便のファーストクラス責任者は沢村に乗務変更とする」
その言葉は、静にとって死刑宣告にも等しかった。
千夕が勝ち誇ったように立ち上がる。
彼女は猫なで声で吉田に礼を言うと、挑発するように静を一瞥した。
全身の血液が足元から引いていく感覚。
恋人も、親友も、そして仕事の誇りも、すべてを一度に奪われた。
静はその場で崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
深く深く息を吸う。
そして背筋を伸ばし、自分の席へと歩き出した。
その瞳には、今まで誰も見たことのない冷たい光が宿っていた。
おすすめの作品





