
旦那様、奥様はまた手が付けられません
章 3
「愛莉!」高橋恵美(旧姓藤原)は胸が張り裂けそうな思いで娘を支えながら、突然現れた男を怒りに満ちた目で睨みつけた。 「あんた誰?藤原涼音の愛人か?」
男は何も言わない。 深く彫りの刻まれた眉目には微動だにせず、万里の底に沈む深海のように、死寂と危険が漂っていた。
彼は恵美へと一歩、また一歩と近づく。 革靴が床を踏む鈍い音が、廊下に響き渡る。
恵美の心臓は鷲掴みにされたかのようで、息が詰まる。
この男、絶対に関わっちゃいけない……
「藤原涼音、まだ家に帰りたいなら、さっさと戻ってきて謝りなさい!でなきゃ、あんたたち孤児の面倒なんて、もう二度と見ないからね!」 恵美はそう言い放つと、愛莉の手を強引に引っ張って、その場を離れていった。
面倒を見る?
あの屋敷は、まぎれもなく私の家だというのに!
涼音は、男の手の中に現れ、そして腰元に消えていく拳銃を目にして、瞳を鋭く細めた。
この男は……一体?
男が振り返り、涼音と視線が合った。 はっきりと見たその顔は、これまで出会ったことのない絶世の美貌だった。 五官は立体的に鋭く、氷のように冷たい双眸には何の感情も覗かない。 いかなることも、彼の心を波立たせることはないかのようだ。
しかし、彼の周囲に漂う気配は、これまで感じたことのないほどの恐怖と危険に満ちていた。
道理で、叔母があんなに慌てて逃げ出したわけだ。
「藤原涼音」男はゆっくりと唇を開き、彼女の名前を紡ぎ出した。 その声は低く磁性を帯びているが、骨の髄まで凍りつくような冷たさを秘めていた。
涼音は彼を見据えて問うた。 「あなたが……妹の治療費を払ってくれた人?」
「賢いな」 男の声には相変わらず感情の起伏がない。 「荷物をまとめろ、俺の家へ来い」
涼音は眉をひそめた。
何という、訳の分からない男だ
すると、傍らにいた別の男が歩み寄り、説明を始めた。「藤原さん、こんにちは。 こちらは北村様でいらっしゃいます。 北村様のお父様と、あなたのお父様は戦友の間柄でして、ご存命中に、北村様にあなた方のお世話を頼まれたんです。 北村様は軍隊を出られたばかりで、ようやくあなた方を見つけ出されました」
なるほど……だから、あんなに恐ろしい気配をまとっているのか。
涼音にはわかった。 この男は冷酷ではあるが、自分に悪意はない。
涼音は淡々と訊ねた。 「彼のお父様が、私の父の戦友だという証拠は?」
北村凌也は一枚の写真を取り出した。
戦場で撮られたと思われるその写真には、荒涼とした背景の前で、彼女の父と見知らぬ男が並んで立っていた。 見知らぬ男の眉目は、確かに眼前の男と幾分似通っている。
涼音は一瞬考え込んだ。 「少し、考えさせてください」
「わかった」 連絡先を交換しよう。 凌也は言葉少なに言った。
涼音は彼の連絡先を追加した。 プロフィール画像は真っ黒だった。
涼音のも、そうだ。
なんだか、奇妙な気分になった。
助手も涼音の連絡先を追加した。 「藤原さん、私は北村様のアシスタント、今井大翔と申します。 何かございましたら、いつでも私までご連絡ください」
「はい」
二人はその場を去っていった。
涼音は妹の病室に戻った。
しばらくすると、病室の扉の前に二人のボディガードが立っているのが目に入った。
(あの男の仕業に違いない)
涼音は自ら妹の服を着替えさせ、髪を洗ってやった。 枯れ草のようだった髪が、少しだけ滑らかになった。
だが、妹の体に刻まれた大小無数の傷、そして無数のタバコの火傷痕を目の当たりにすると、涼音の目頭が再び熱くなった。
涙をぐっとこらえ、涼音は自分が開発した軟膏を妹の傷に丁寧に塗り、それから携帯していたノートパソコンを開いた。
私がいない間に、妹は一体何を経験したんだろう……
彼女は屋敷街の監視カメラシステムに侵入した。
モニターに映し出される映像に、涼音の身体は次第に硬直していく。
自分が家を出て間もなく、妹は寝室から追い出され、庭の犬小屋で寝るようになっていた。
かつて太陽のように明るかった妹の顔から、笑顔は完全に消え失せていた。
アルバイトを始めたが、店でセクハラを受けた。
懸命に勉強して最高の大学に合格したのに、入学して一学期も経たないうちに骨折してしまった。 ダンサーを目指していた彼女にとって、その骨折は、踊りを諦めざるを得ないほどの重傷だった。
高橋愛莉の姉、高橋柚希は妹と同じクラスだった。 涼音は、妹の骨折が柚希と無関係だとは、どうしても思えなかった。
それ以来、妹は家に縛り付けられ、毎日のように家政婦同然の仕事をさせられながら、犬小屋で寝起きする──そんな人間以下の生活を強いられていた。
それなのに、妹が自分に送ってくるメールは、いつも決まってこうだった。 『お姉ちゃん、心配しないで、私は家で元気にしてるから、お姉ちゃんもそっちで、元気でいてね』
涼音の視界が、一瞬で涙に滲んだ。
妹がこれほどまでに惨めな日々を送っているというのに、叔母の一家は万邦興業との提携で会社を拡大させていた。
中学中退の従妹はインフルエンサーとなり、柚希はダンス学院で幅を利かせ、叔母はセレブ妻の仲間入りを果たし、叔父は経済界の注目人物にのし上がっていた。
「ドン!」
涼音はテーブルを拳で強く殴りつけた。 手に走る痛みなど、まったく感じない。 ただ、尽きることのない後悔だけが、胸をえぐるように広がっていた。
(もっと妹に気を配っていれば……あの子がこんな目に遭うはずがなかった。
私のすべての努力は、結局、叔母一家のための“嫁入り道具”に過ぎなかったのか!)
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