
記憶喪失を装う御曹司:私からの冷酷な決別宣言
章 3
タクシーが、見慣れたタワーマンションのエントランス前に停まった。香澄は車を降り、そびえ立つガラス張りの建物を見上げた。
オートロックのパネルの横にある、生体認証システムに目を向ける。香澄は冷たいガラス面に自分の網膜をスキャンさせた。ピ、という無機質な電子音と共に、重厚なドアが滑らかに開いた。まだ彼女のアクセス権限を削除していないらしい。敦人のその傲慢さと油断を、香澄は心の中で嘲笑った。
玄関に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく甘ったるい香水の匂いに、思わず顔をしかめた。相田美咲が好んで使うブランドの香りだ。この部屋が本来持っていた、清潔でミニマルな空気とは全く異質だった。
「あら、桐山様」
物音を聞きつけてキッチンから出てきた家政婦の鈴木はなは、香澄の姿を認めると、作り笑いをさっと消した。
「まだここにご用があったんですか。よくもまあ、戻ってこられましたわね」
いつものような丁寧なお辞儀もなく、鈴木は嫌味たっぷりに言い放ち、香澄の行く手を阻むように立ちはだかった。
香澄は冷たい視線で鈴木を一瞥した。それは、この家の真の主人が誰であるかを思い出させるような、有無を言わせぬ威圧感を放っていた。鈴木は無意識に半歩後ずさり、道を譲った。
スリッパに履き替えリビングに入ると、そこは別世界だった。彼女が選び抜いたシンプルな家具や小物は一掃され、代わりに趣味の悪いピンク色のクッションやレースのカーテンが設えられている。
ローテーブルの上には、美咲のブランドバッグと、敦人と親密そうに写る写真立てがこれ見よがしに置かれていた。無言の勝利宣言。
香澄はそれらを完全に無視し、主寝室へとまっすぐ向かった。彼女の目的はただ一つ、金庫の中にある重要書類だけだ。
寝室のドアを開けると、隅の方に、彼女の服が詰め込まれた安物の段ボール箱がいくつか無造実に積まれていた。
香澄はそれらには目もくれず、ウォークインクローゼットの奥へと進む。壁に偽装されたパネルを開け、指紋認証で隠し金庫の扉を開いた。
中には、彼女のノートパソコン、裏帳簿のコピー、数点の重要特許に関する書類、そして、かつて父親の事件を調べるために匿名で購入したセキュリティ強化モデルの予備スマートフォンと、その二百万円の領収書が保管されていた。いざという時のための切り札だ。
それらを慎重に持参したビジネスバッグに詰め込み、中身を再確認する。ようやく、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
その時、リビングから鈴木の媚びた声が聞こえてきた。相田美咲が、この部屋の固定電話にかけてきたらしい。
鈴木はわざとスピーカーフォンをオンにした。美咲の甘ったるい声が、部屋中に響き渡る。
「鈴木さん、新しいベッドシーツ、もう替えてくれた?」
「はい、美咲様!ところで、例の厚かましい方がいらっしゃって、寝室で何かゴソゴソ漁っておりますわ。お金でも盗むつもりかしら」
電話の向こうで、美咲がくすくすと笑う声がした。
「しょうがないわね。鷹司家のものには指一本触れさせないように、しっかり見張っておいてちょうだい」
香澄はビジネスバッグを手に、寝室から出てきた。そして、通話中の鈴木の前に、音もなく立った。
その氷のような視線に射抜かれ、鈴木は言葉を失い、慌てて電話を切ろうとする。だが、その手は香澄によって強く掴まれた。
香澄はスピーカーフォンに向かって、はっきりと、冷静に告げた。
「ご心配なく。私が持ち出すのは、私のゴミだけです。残りは全て、ガラクタ集めがお好きなあなたに差し上げますわ」
「なっ……!」
電話の向こうで、美咲の優しい仮面が剥がれ落ちた。
「あなたなんて、敦人さんに飽きられただけの負け犬のくせに!」
香澄はもはや言い争う気も起きず、固定電話のコードを、ただ無言で引き抜いた。美咲の金切り声が、ぷつりと途絶える。
「な、何てことを!」
鈴木が逆上して香澄を指差した。
「器物損壊よ!警察を呼んでやるわ!」
香澄は財布から一万円札の束を取り出すと、それを鈴木の顔に叩きつけた。
「電話線の代金よ。残りはあなたの口止め料」
ばらまかれた紙幣に、鈴木の目は釘付けになった。彼女は貪欲な本性を剥き出しにして、床に散らばった金を拾い集め始めた。もはや香澄を止める者はいない。
香澄は、床に散らばる札束を踏みつけながら、振り返ることなく玄関へ向かった。
ドアを開ける前に、姿見に映る自分を見た。顔色は青白い。だが、その瞳は、かつてないほどの闘志に燃えていた。
彼女はドアを開け、持っていた鍵を外のマットの上に、強く投げ捨てた。四年間、彼女を閉じ込めていた金色の鳥籠との、完全な決別だった。
エレベーターに乗り込み、階数表示が下がっていくのを見ながら、香澄の心は、蛹から蝶へと羽化するような、不思議な軽やかさに満たされていた。
マンションを出ると、香澄はすぐに公衆電話を探し、ある男に電話をかけた。裏社会に通じる、情報屋だ。
次なる戦いの準備は、もう始まっている。
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