
さよなら賢妻、こんにちは最強の私
章 2
間もなく、晋佑は客室から一人の女性を横抱きにして現れた。その女は華奢で病弱な体つきに、奏絵が自ら刺繍した薄手の花模様の毛布を掛けていた。
顔は青白く、まるで今にもこの世から消えてしまいそうな儚さを漂わせ、身を縮めて晋佑の胸に収まり、糸のように細い声でつぶやく。「晋佑お兄ちゃん……南里さんが……」
晋佑は階段の踊り場で足を止め、奏絵に向かって言った。「離婚の詳細は弁護士が話す。三日以内に瀬戸別荘を出てくれ」
そう告げると、腕の中の女を抱え直し、そのまま振り返ることなく階下へと消えていった。
階段口に立ち尽くす奏絵の視線の先で、須藤茜は晋佑に抱かれながら顔を上げ、勝ち誇った光をその瞳に宿す。
ほんの一時間前、この病身の女は笑みを浮かべて奏絵にこう言ったのだ。「私はこうして堂々とこの家に入ったの。だから、彼を返してちょうだい」
その背中が完全に見えなくなるまで、奏絵はただ立ち尽くし、やがて糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。瞼の縁からは音もなく涙が伝い落ち、両腕で自分の体を抱きしめる。寒気が骨の髄まで染みてくる。
十年――
あの日、地獄の底から彼に救い上げられてから、奏絵は十年もの間、密かに彼を見つめ、そして愛してきた。人生に、いくつ十年があるだろう。
だが、愛されないものは愛されない。たとえ土埃にまみれてまで身を低くしても、この男の心を動かすことはできなかった。
「晋佑……これが、あなたのために流す最後の涙よ」
冷たく濡れた涙を拭い、奏絵は立ち上がる。さきほどまでの柔らかく脆い姿は消え去り、その瞳には鋭い光が宿っていた。
――もう、去る時だ。
離婚協議書は、主寝室のベッド脇のテーブルに、いやでも目に入るように置かれていた。
奏絵はためらわず最後のページをめくり、見慣れた署名を見つける。瀬戸晋佑――その名を指先でそっとなぞると、鼻の奥がつんと痛んだ。
込み上げる涙を吸い込み、無理やり飲み込む。未練を残すことなく、ペンを取り、自分の名――南里奏絵――を書き添えた。
(この名前で始まったのなら、この名前で終わらせよう)
彼女は、ベッド脇に一つの印鑑を置いた。それは、原石の選定から購入、そして彫刻の仕上げまで、一年近くを費やしたもの。三周年の記念にと、心を込めて彼に贈るつもりだった。
三年間、贈り物は数えきれないほど用意してきた。そのどれもが心を尽くしたものだったが、行き着く先は、クローゼットの奥でほこりをかぶるか、無造作にゴミ箱へ放られる運命。まるで、彼への真心と同じように。
瀬戸別荘を出ると、黒の高級車が路肩に滑り込んできた。奏絵が乗り込み、淡々と言う。「離婚した」
運転席の男は茶色のサングラス越しに口元を歪め、妖しく笑った。「おめでとう、自由の身だ」
そしてノートパソコンを差し出す。「そろそろ、本来の君に戻るときだ。 我々は、君の帰りをずっと待っていた」
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