
婚約指輪と裏切りの五年間
章 2
「美歌, ただいま」
勇信の声が, 静まり返った部屋に響いた. 彼は一抱えもある花束を抱えていた. 白いカサブランカと赤いバラ. 私の一番好きな花だ.
彼の顔には, いつもの穏やかな笑顔が浮かんでいる. 私が, 今日ホテルで見た, あの笑顔だ.
彼は, 私の顔に驚いた様子もなく, 平然とこちらに向かって歩いてくる. まるで, ホテルの出来事など, 何もなかったかのように.
「疲れただろう. パーティーの準備, ありがとう」
彼はそう言って, 花束を私に差し出した.
私は, 麻痺した手でそれを受け取った. 重くて, 冷たい花束だった.
「このカサブランカは, 君の純粋さを. この赤いバラは, 僕の情熱を象徴しているんだ」
彼はそう言って, 私の頬に触れようとした.
私は, 彼の言葉に, そしてその仕草に, 全身の毛が逆立つような嫌悪感を覚えた.
彼の言葉は, まるでどこかの舞台のセリフのように, 空虚に聞こえた.
「話があるんだ」
彼は, 私から少し離れて, ソファに座った.
「莉枝のことなんだけど」
彼の口から, その名前が出た瞬間, 私の体は硬直した.
「彼女は, 昔から体が弱くてね. 最近, また持病が悪化してしまって... 」
彼は, 悲しげな顔をして, ゆっくりと話し始めた.
「それで, 彼女のお父さんが, 僕に頼んできたんだ. 莉枝を安心させてやってほしいって」
安心させる? どうやって?
「莉枝とは, 幼馴染なんだ. 僕が建築家を志したのも, 彼女の夢を叶えるためだった」
彼の言葉は, 私の知っている過去とは全く違うものだった. 私の知る過去では, 彼が建築家を志したのは, 私の「立花堂」を改装するためだったはずだ.
「彼女は, 僕がずっと支えてきた人なんだ. だから, 僕が彼女を裏切るわけにはいかない」
裏切る? 裏切っているのは, あなたでしょう?
「だから, 僕は彼女に, プロポーズしたんだ」
彼は, 私の目を真っ直ぐに見つめて, そう言った. その瞳には, 一切の迷いも, 罪悪感も感じられなかった.
「君には, 悪いと思っている. でも, 莉枝には, 僕が必要なんだ」
彼は, 私に理解を求めているようだった. 彼の言葉は, 私への説明ではなく, 一方的な通告だった.
私が数日中にこのアパートを出ていくことを, 彼は知る由もない.
私は, ただ静かに頷いた.
彼が私に「君はもう少し, 自分の意見を言った方がいい. いつも僕の言うことばかり聞いているから, つまらないんだ」と言った日のことを思い出した.
彼は, 私が彼の言葉に反論しないことを, 私の「魅力のなさ」だと考えていたのだろうか.
私は, 彼が望む女性になろうと, 必死に努力してきた. 彼の好みに合わせて, 服装を変え, 髪型を変え, 彼の好きな料理を覚え, 彼の好きな音楽を聞いた.
彼の才能を信じ, 彼の言葉を信じ, 彼の夢を支えることが, 私の存在意義だった.
そんな私が, 今, 彼の前で静かに頷いている.
彼の顔に, 安堵の表情が浮かんだ.
「ありがとう, 美歌. 君は, 本当に優しいね」
彼はそう言って, 私の頭をそっと撫でた.
その瞬間, 私の心は, 完全に凍りついた. 彼の優しさが, まるで毒のように感じられた.
「莉枝は, 明日からこのアパートで暮らすことになる」
勇信の言葉に, 私の全身が震えた.
「だから, 君には, もう少しの間, 友人や同僚には, 僕たちがまだ付き合っていると話しておいてほしい」
彼は, 私に何を求めているのだろう. 偽りの関係を続けろと?
「莉枝は, デリケートな時期なんだ. 君の協力が必要なんだ」
彼の言葉は, 私への侮辱だった. 彼の都合の良いように, 私を利用しようとしている.
私は, ゆっくりと顔を上げた. そして, 乾いた笑みを浮かべた.
「わかった」
そう言って, 私は花束をテーブルに置いた.
勇信は, 私の反応に戸惑ったように, 眉をひそめた.
彼は, 私の手を握ろうとした. 私は, 素早く手を引いた.
彼の衣領に, わずかに口紅の跡が残っているのが見えた.
私は, 吐き気がした. 胃の奥から, 嫌悪感がこみ上げてくる.
勇信は, 私の拒絶に, 顔を歪ませた.
「美歌, どうしたんだ? 」
彼の声は, 苛立ちを帯びていた.
私は, 何も言わずに, ただ彼を見つめた.
彼は, 私の視線に耐えられなかったのか, 焦れたように立ち上がった.
「じゃあ, 僕は莉枝のところへ行く. 何かあったら, 連絡してくれ」
彼は, そう言って, 慌ただしくアパートを出て行った.
ドアが閉まる音を聞きながら, 私はテーブルの花束をゴミ箱に投げ込んだ.
そして, 勇信からの誕生日プレゼントも, 一緒にゴミ箱に押し込んだ.
私の目は, もう涙を流すことはなかった.
私は立ち上がり, 自分の荷物をまとめ始めた. クローゼットから服を取り出し, スーツケースに詰める.
このアパートに, もう私の居場所はない. 彼との思い出も, すべて置いていく.
この場所は, もう私の家ではない. ただの, 空っぽの箱だ.
私は, 彼の影がちらつくこの場所から, 一刻も早く立ち去りたかった.
私の心は, 冷え切っていた. もう, 彼に対して何の感情も抱かない.
ただ, 早く, ここから逃げ出したかった.
私の指先が, まだ震えている. それは, 悲しみでも, 怒りでもなく, ただの虚無感だった.
私は, もう一度, 部屋を見渡した.
この5年間, 私がすべてを捧げた場所.
そして, 今日, すべてを失った場所.
私は, この場所を, もう二度と振り返ることはないだろう.
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