
婚約指輪と裏切りの五年間
章 3
翌朝, 私は出社した. 心は空っぽだったが, 体は自動的に動いた.
パソコンを立ち上げ, 辞職届のフォーマットを開く. 必要事項を打ち込み, 印刷する.
用紙がプリンターから吐き出される音だけが, 静かなオフィスに響き渡った.
この会社で, 勇信と出会った. 大学を卒業してすぐ, 私は彼の才能に惹かれ, 彼と同じ建築事務所に就職した.
和菓子の専門学校も出ていたけれど, それは彼の夢を邪魔しないように, と諦めていた.
「君は, 僕の一番の理解者だ」
そう言ってくれた彼の言葉を信じていた. 彼の言葉が, 私の生きる意味だった.
何度か, 結婚の話題を振ったこともあった.
「勇信, いつになったら, 私と結婚してくれるの? 」
私は, 冗談めかして, そう尋ねた.
彼はいつも, 優しく私の頭を撫でて, こう言った.
「美歌, もう少し待ってくれ. 今は, まだ仕事が軌道に乗っていない. 男は, 先に仕事で成功しないと, 君を幸せにできないだろう? 」
彼は「先立業, 後成家」という言葉をよく口にした. 私はその言葉を信じて, 彼を待ち続けた.
彼がプロジェクトで成功し, 昇進した時, 私は心の中で「これで, ついに」と期待した.
その日, 私は彼からのプロポーズを待ちわびていた.
しかし, 彼の口から出たのは「僕, 昇進したんだ. これからも, もっと頑張らないと」という言葉だけだった.
私の期待は, いつも空振りに終わった. 私は, 彼の成功を心から喜びながらも, どこかで「私へのプロポーズは, いつなのだろう」という思いを抱いていた.
今思えば, それは私の勝手な期待だったのかもしれない. 彼は, 私と結婚するつもりなど, 最初からなかったのだ.
「美歌さん, 辞めるんですか? 」
背後から, 同期の由美の声がした. 彼女は, 私の手元にある辞職届を見て, 驚いた顔をしている.
「ええ, 少しね」
私は, 無理に笑顔を作った.
「え, でも, 美歌さん, 今度昇進だって噂じゃないですか! もったいないですよ! 」
由美の声は, 心底もったいないと思っているようだった.
「結婚することになったから」
私は, そう嘘をついた.
「えええ! おめでとうございます! 知らなかったです! 相手は, やっぱり勇信さんですか? 」
由美は目を輝かせながら, 私を祝福する.
私は, 笑顔が凍りつくのを感じた.
「ねえ, 知ってる? 勇信さん, 畑山建設の令嬢と婚約したんだって! 本当に, お似合いだよね. 幼馴染なんだってさ」
由美の声が, 私の耳に鋭く突き刺さった.
私は, 何も言えずに, ただ顔が引きつるのを感じた.
「美歌さん? 顔色悪いですよ? 」
由美が心配そうに, 私の顔を覗き込む.
私は, 震える手で携帯を取り出した. 勇信の連絡先を探す. 彼の名前は, すでに私の連絡先リストから消えていた.
SNSも確認した. 彼のアカウントは, 私をブロックしていた.
仕事の連絡用のアカウントだけが残っていたが, そこには, 私との個人的なメッセージは一切残されていなかった.
勇信は, 私との関係を, 完全に抹消したのだ.
その時, オフィスのドアが開いた.
勇信と莉枝が, 腕を組んで入ってきた. 莉枝の顔は, 血色が良く, 健康そのものだった. 彼女の表情には, 病の影など, 微塵も感じられない.
「皆さん, ご紹介します. 今日から, この部署の新しい責任者となる, 畑山莉枝さんです」
勇信の声が, オフィスに響き渡った.
周囲の同僚たちは, 一瞬, 驚きに顔を硬直させたが, すぐに笑顔を作り, 莉枝に挨拶を始める.
「畑山さん, どうぞよろしくお願いいたします! 」
「こちらこそ, どうぞよろしく」
莉枝は, 優雅に微笑みながら, 同僚たちの挨拶に応えていた.
私は, 手に握りしめた辞職届が, 汗で湿っているのを感じた.
勇信が, 私の方を見た. 彼の視線には, 不満と, かすかな苛立ちが混じっていた.
「美歌, 君も莉枝さんに挨拶しないのか? 」
彼の声は, 私を咎めるように響いた.
莉枝が, 私の方に歩み寄ってくる. 彼女は, 私に手を差し出した.
「立花さん, 初めまして. これから, どうぞよろしくね」
彼女の声は, 優しかった. しかし, その瞳の奥には, 冷たい光が宿っているように感じられた.
私は, 反射的に手を伸ばそうとした.
その時, 勇信が, 莉枝の手をそっと引いた.
「莉枝, 彼女はもうすぐ辞めることになっているんだ. 挨拶は, またの機会に」
彼の声は, 冷たく, そして事務的だった.
莉枝は, 勇信に腕を引かれ, そのままオフィスを後にした.
私は, 宙ぶらりんになった手を, ゆっくりと下ろした.
その手は, まるで, 私の心のように, 空っぽだった.
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