
鳥籠の姪を抜け出し、真実の愛に嫁ぎます
章 2
柚月は背筋を強張らせたまま、しばらくしてから、ゆっくりと振り返った。
森は、ちょうどシャワーを浴び終えたところだった。半乾きの髪から、水滴がぽたぽたと落ちている。身にまとっているのは、濃いグレーの部屋着だけ。それでも、その立ち姿は相変わらず凛としている。 ——あの険しい表情さえなければ。誰の目にも、理想の男に映っただろう。
柚月は唇をきゅっと結び、視線を逸らしたまま、何も言わない。
その様子を、桜の視線が行き来する。彼女はわざとらしく少しだけ眉をひそめ、森の腕にそっと絡みついた。「そんなに怖い顔しなくてもいいでしょ?」
軽くたしなめるように、けれど甘えるような声。「柚月、起きたばかりなんだから。寝起きで機嫌が悪いのは、よくあることよ。……あなたも、普段は彼女以上に気が強いじゃない」
叱る口調でありながら、むしろ甘えているように聞こえる。
柚月の顔から、血の気が引いていく。自分が、ここにいるだけで余分な存在に思えた。
森の表情は、まだ硬い。だが先ほどほどの冷たい圧は、確かに和らいでいた。 彼は、宥めるように桜の肩を二度ほど軽く叩き、低い声で柚月に言う。「……書斎に来い」
柚月は唇を噛み、何も答えずに、黙って彼の背中についていく。
背後から、桜の少し心配そうな声が届いた。「年長者なんだからって、あんまり厳しくしすぎないでね。ちゃんと、落ち着いて話してあげて」
「……」
——まだ結婚もしていないのに、もう正妻気取りだなんて。
柚月は心の中で冷たく笑った。前を見ずに歩いていたため、前方の男が立ち止まっているのに気づかなかった。次の瞬間、不意にその固い胸板にぶつかった。鼻先に鈍い痛みが走る。
「お前は一日中、頭の中は一体何を考えてるんだ?」
低く、重たい声が降ってくる。柚月が顔を上げると、そこには、冷え切った森の視線があった。
なぜかでしょう——言葉が、口をついて出た。「……私が何を考えてるか、あなた、本当に分からないの?」
たぶん、最後の未練だったのかもしれない。
あるいは、彼の反応を確かめたかっただけ。
森は眉をさらに強く寄せ、しばらく彼女を見下ろしたまま、口を開く。「柚月。俺は前から言ってるだろ。考えるな。分を越えたことだ」そして、淡々と続けた。「お前は、もうすぐ卒業だ。俺が、ちゃんとした相手を用意する。……だが、その相手が俺であることは、絶対にない」
森は、言葉を切り、決定事項のように言い放つ。「俺は、お前の叔父だ。桜は、いずれお前の叔母になる。俺を敬うのと同じように、彼女を敬え。分かったな?」
——それらの言葉は、柚月にとって、初めて聞くものだった。
なるほど。彼は、彼女を好きにならないだけじゃない。——他の誰かを、自分に“あてがう”つもりでいたのだ。
……宗介が言っていた通りだ。柚月は、ゆっくりと息を吐いた。
——ふっ……私は、いったい何を望んでいるっていうの?
もう、決めたはずじゃない。
柚月は深く息を吸い、人を諦めるというのは、思っていたほど、難しいことじゃないのかもしれない。
彼女は素直に頷き、静かに言った。「……分かりました。叔父さま」
「……」
森は、思わず眉を上げた。その反応は、明らかに意外だった。
これまで、柚月が「叔父さん」と呼ぶのは、大きな失敗をして、許しを請うときだけだった。こんな話し合いの場では、彼女はいつも言葉を返し、食い下がってきたはずだ。
本気で心を入れ替えたと思い込んだのか、森の表情がわずかに和らいだ。「……ほら、桜はお前にずいぶん良くしてくれてるだろ。わざわざ朝食まで作ってくれたんだ。あまり敵意を向けるな。な?」
——たとえ彼女が作らなくても、森が用意したはずだ。
そもそも、柚月は、食べるつもりなどなかった。
彼女は何も言わず、もう一度頷く。「分かりました。……叔母さんとは、穏やかに過ごします」
そのあまりに従順な態度に、森は、得体の知れない違和感を覚えた。深い視線が、柚月の顔に落ちる。何か言いかけて、やめて——そして、別の問いを口にした。「……昨夜、どうして来なかった?」
昨日は、彼の二十八歳の誕生日だった。
——柚月は、行った。
ただ、誰にも気づかれなかっただけだ。
彼女は、淡々と答える。「大学で研究会があって、終わるのが遅くなりました。疲れていたので、そのまま帰りました」少し間を置いて、付け加える。「……叔父さん。お誕生日、おめでとうございます」
今の柚月は、ただ一刻も早く、すべてを整理して、彼のそばを離れたいだけだった。余計な波風を立てるつもりはない。だから、これ以上説明する必要もなかった。
森は短く「……ああ」と頷き、少し迷った末に、手を伸ばして柚月の頭を軽く撫でた。「何かあったら、ちゃんと叔父さんに言え。一人で抱え込むな。いいな?」 そう言ってから、続ける。「……朝ごはん、食べてこい」
——こんな場面が、本当に存在するなんて。好きな人と並んで、“恋敵”が作った朝食を口にする瞬間。
柚月は、適当な理由をつけて先に席を立とうかと思った。しかし、ふと思い直す。——森を手放すと決めた以上、こんな光景も、受け入れるべきなのだ
……どうせ、もう長くは続かない。
食事を終えると、森は二階へ着替えに上がった。
柚月も、自室へ戻って身支度をするつもりだった。今日は大学へ行き、北城でのインターンについて、指導教員と相談しなければならない。
「——柚月」
背後から、声がかかった。
振り返ると、キッチンの入り口に立つ女がいる。家事用の手袋をはめ、動きは自然で、どこか優雅。まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりの佇まい。
柚月の胸が、詰まる。表情を変えないまま、問い返した。「……何か?」
「大したことじゃないの。ちょっと、二言ほど話したくて」
桜は柔らかく微笑む。けれど、よく見れば——その笑みは、瞳の奥に届いていなかった。「あなた、昔から成績が良かったって聞いたわ。何度か飛び級もしてるんでしょう?もうすぐ卒業よね……それで、もう決めているの?どこでインターンをするのか」
その声音は穏やかで、あくまで“世間話”のようで。——けれど確かに、線を引こうとする気配があった。
柚月は、わずかに笑った。「……それは、叔母さんの管轄外じゃないですか」
本来なら、森の意向として、彼女のインターン先は藤堂グループの関連会社になるはずだった。 その話を初めて聞いたとき、柚月は嬉しくて仕方がなかった。ようやく、彼と肩を並べて立てるのだと、本気で思ったから。
——けれど、今は。
……もう、どうでもいい。
桜の表情が、一瞬だけ固まる。すぐに取り繕うように、微笑みを作った。「ただ、心配してるだけよ。あなたの叔父さんは男性でしょう?色々と、話しづらいこともあると思って」
——何が話しづらいのだろう。柚月は、そう言いかけて、やめた。子どもの頃から、どんなことでも森に話してきたのだ。
けれど、目の前にいるのは——彼が心の底から愛している女性。
もう、言う必要はなかった。
「……はい。分かりました」
桜の瞳に、わずかな驚きが走る。この子が、こんな反応をするとは思っていなかったのだろう。二秒ほど置いてから、探るような口調で続けた。「でも……もう大人なんだし、叔父さんと一緒に暮らすのは、少し不便じゃない? いっそ、私のところに引っ越してきたら?ちょうど、話し相手も欲しかったの」
その提案は柔らかく、親切心に包まれているようで。——けれど、柚月は知っている。恋愛の中に潜む、数えきれないほどの回り道も、恋愛ドラマに描かれる、静かな駆け引きも。
誇張だと思っていた。けれど、どうやら——事実だったらしい。
桜が望んでいるのは、彼女のそばに柚月を置くことではない。ただ、森のそばから追い出したいだけだ。
喉の奥に、何かが詰まったような感覚がした。棘のように引っかかって、吐き出すことも、飲み込むこともできない。
……それでも。柚月は、結局、堪えきれなかった。二歩、前に出る。桜の目を、まっすぐに見据えて言う。「……それじゃあ、叔母さんのその“ご配慮”に、感謝しなきゃいけないのかしら?」
その瞬間だった。桜の表情がわずかに揺らいだ。まるで——森が纏うあの圧迫感を、直に向けられたかのように。彼女は思わず、二歩、後ずさった。「い、いいえ……そんな、必要ないわ……」
ふいに、視線が背後へ逸れる。そして、柔らかな声で続けた。「柚月。私が、あなたから叔父さんを奪うなんて、思わないで。あなたは、ずっと……彼にとって、大切な存在なんだから——」
その言葉が終わる前に。「——っ!」桜は、引き戸の敷居に足を取られ、大きく体勢を崩した。次の瞬間、後ろへ、強く倒れ込む。
柚月は反射的に、手を伸ばした。だが、その腕を——突如として、強い力が掴み、振り払う。身体が弾かれるように横へ飛び、テーブルの縁に、背中を強く打ちつけた。
森の冷え切った視線が、失望を帯びて、柚月に落とされた。「……柚月。本当に、お前は——大きくなるにつれて、ますます性格が悪くなったな」
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