
鳥籠を抜け出した余命宣告妻:冷酷夫の愛はいりません
章 2
鷹司暁は、ベッドの上で涙を流しながら笑う静を、冷ややかに見下ろした。彼女の感情的な反応を、いつもの気まぐれか、あるいは絢子への嫉妬心からくるヒステリーだと断定した。
「絢子は友人だ。今日は彼女にとって大切な日だった。鷹司家の主婦たるもの、もっと寛大であるべきだ」
彼は静の反抗を「嫉妬」という陳腐な言葉で片付け、さらに続けた。
「自分の本分を守れ。持つべきでない感情は捨てるんだ」
その言葉が、静の中に残っていた結婚という幻想の最後の欠片を、粉々に砕いた。妻ではない。ただ「本分を守る」ことを要求される、一つの役職に過ぎないのだ。
静はふっと笑みを消し、驚くほど穏やかな声で言った。
「ええ、そうね。私が、間違っていたわ」
彼女は静かにベッドから降りると、バスルームに入り、内側から鍵をかけた。カチャリという音が、二人を隔てる壁となった。
暁は、彼女がようやく「理解」したのだと思い、苛立ちを隠さずに踵を返した。寝室を出て、書斎へ向かったのだろう。やがて階下から車のエンジン音が聞こえ、静は彼がこの家を去ったことを知った。会社に戻ったのか、それとも、絢子の元へ帰ったのか。もう、どうでもよかった。
バスルームの鏡に映る自分の顔は、血の気を失い、ひどくやつれていた。静は鏡の中の自分に語りかけた。
「西園寺静。三年間、もう十分よ」
涙を拭い、バスルームを出る。彼女はスマートフォンを手に取り、ある番号を探し出した。個人弁護士、田中誠。
「田中先生、おはようございます。離婚協議書を作成してください。できるだけ早く、お願いします」
メッセージを送ると、すぐに返信があった。
「西園寺様、承知いたしました。財産分与に関しては……」
静は迷わず打ち込んだ。
「私は何も要りません。鷹司家から与えられたものは、すべてお返しします。净身出户で結構です」
弁護士は少しの間沈黙した後、『承知いたしました。一時間以内にメールでお送りします』と返してきた。
決別の手続きは、驚くほど簡単だった。
静はノートパソコンを開き、もう一つの作業に取り掛かった。辞表の作成だ。彼女は鷹司グループの市場開発部で副部長という肩書きを与えられていた。もちろん、それは暁が世間の口を塞ぐために用意した、名ばかりの役職だった。
辞表を書き上げ、人事部と暁の秘書である加藤健のメールアドレスに送信する。同時に、有給休暇の申請も済ませた。
一時間後、離婚協議書の電子ファイルが届いた。静は書斎のプリンターで二部印刷する。協議書に書かれた「鷹司暁」の名前に、心臓が一瞬、鋭く痛んだ。だが、彼女はためらうことなく、乙の欄に「西園寺静」とサインした。
インクが乾く頃には、三年間彼女を縛り付けていた重い枷が、少しだけ軽くなった気がした。
荷造りを始める。彼女が持っていくものは、数着の普段着と、母親が遺した数少ない品々だけだった。クローゼットに並んだブランド物のバッグや、ジュエリーボックスの中の宝石には、指一本触れなかった。
階下に降りると、家政婦の佐藤が、いつものように安神作用のあるスープを差し出してきた。これは姑である鷹司容子が、妊娠に良いからと毎日飲むように命じていたものだ。今となっては、すべてが滑稽な茶番に思えた。静は礼儀正しくそれを断った。
サイン済みの離婚協議書を一部、茶封筒に入れる。
家を出る前、彼女はこの華麗な牢獄を一度だけ振り返った。未練は、ひとかけらもなかった。
小さなスーツケースを引き、佐藤に「少し出かけてきます」とだけ告げて、静はヴィラの重い扉を背後で閉めた。
スマートフォンでバイク便を呼ぶ。すぐにやってきたライダーに、茶封筒を手渡した。
「鷹司グループ本社ビル、総裁秘書室の加藤健様宛です。必ず、ご本人に手渡してください。重要書類です」
念を押してそう告げた。
すべてを終えた後、彼女は流しのタクシーを拾い、一つの住所を告げた。
「東京拘置所まで、お願いします」
今日、三年の刑期を終えて、一人の男が出所する。
中村悠真。
かつて、彼女の希望だった男。義理の兄。暁の裏切りを目の当たりにした今、彼だけが、もしかしたら自分に温もりを与えてくれるかもしれない、唯一の存在だった。
タクシーの窓の外を、見慣れた街並みが猛スピードで後ろへ流れていく。過去との決別と、微かな再会への期待。相反する感情が、静の胸の中で渦巻いていた。
やがて、タクシーは拘置所の外周にある駐車場に停まった。
静は料金を払い、スーツケースを引いて車を降りる。そして、あの重々しい鉄の門に向かって、静かに歩き始めた。
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