鳥籠を抜け出した余命宣告妻:冷酷夫の愛はいりません の小説カバー

鳥籠を抜け出した余命宣告妻:冷酷夫の愛はいりません

8.0 / 10.0
子宮癌ステージⅣという残酷な現実を突きつけられた日、夫の鷹司暁は初恋の女性である一条絢子の誕生日を祝っていた。電話越しに冷たく突き放された後、主人公が見上げた大型ビジョンには、絢子に高価なダイヤを贈る夫の晴れやかな姿が映る。深夜、別の女の香りを纏って帰宅した暁は、妻の異変に気づくこともなく、跡継ぎを作るための「義務」として冷酷に身体を求めてくるのだった。唯一の心の拠り所だった義兄からも他人扱いされ、絶望の淵に立たされた彼女は、かつて天才と謳われた航空宇宙工学の夢を捨て、三年間も献身的に夫を支えてきた日々を悔いる。自分という存在が彼らにとって単なる邪魔者でしかないと悟った彼女は、署名済みの離婚協議書と辞表を置き、静かにその家を去る決意をした。残されたわずかな時間は、もう誰かに捧げるためのものではない。自分自身の尊厳を取り戻し、一人の人間として自由に生きるために、彼女は鳥籠を抜け出し、新たな一歩を踏み出す。

鳥籠を抜け出した余命宣告妻:冷酷夫の愛はいりません 第1章

「……子宮癌、ステージⅣです」

冷たい合成皮革の椅子に座る西園寺静の耳に、医師の言葉が遠くで響いた。彼女は手に持った診断報告書を、ただ見つめていた。そこに印刷された黒い文字が、まるで焼きごてのように彼女の視界を焼いた。頭の中が真っ白になり、思考が停止する。

どうして。

まだ、二十六歳なのに。

指先が氷のように冷たくなっていく。胃が痙攣し、呼吸が浅くなるのを感じた。この絶望的な状況で、彼女が唯一思い浮かべたのは、夫である鷹司暁の顔だった。

震える手でスマートフォンを取り出し、連絡先の一番上にある名前をタップする。呼び出し音が無機質に繰り返される。長い、長い時間が過ぎた後、電話はようやく繋がった。しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼の声ではなく、けたたましい音楽と人々の楽しそうな笑い声だった。

「何だ?今、忙しいんだが」

暁の不機嫌そうな声が、雑音の合間を縫って鼓膜を突き刺す。

「あの、私……」

病気なの、と続けようとした唇は、彼の次の言葉によって無慈悲に塞がれた。

「用がないなら切るぞ。絢子のそばを離れられない」

その名前を聞いた瞬間、静の心臓を無形の手が握り潰したかのようだった。絢子。一条絢子。彼の初恋の相手であり、世間が彼の「真実のパートナー」と噂する女性。

「待っ……」

静の懇願は、「プツン」という音と共に虚空に消えた。電話は一方的に切られ、静寂に包まれた病院の廊下と、電話の向こうの華やかな世界の対比が、彼女の孤独を際立たせた。

世界から、音が消えた。

静は亡霊のように病院を出た。ふと顔を上げると、銀座四丁目の交差点、最も大きなLEDスクリーンに、見慣れた顔が映し出されていた。

「鷹司グループ総帥、親友の誕生日に愛を込めて。価千金の贈り物」

きらびやかな見出しの下で、鷹司暁が一条絢子の首に、眩いばかりのダイヤモンドのネックレスを優しく着けていた。絢子は幸せそうに微笑んでいる。その笑顔は、鋭いガラスの破片のように静の胸に突き刺さった。

彼の言っていた「忙しい」とは、これだったのだ。

次の瞬間、夜空に無数の光が舞い上がった。ドローンの群れが東京タワーを背景に「Happy Birthday Ayako」という文字を描き出し、壮大な花火が打ち上がる。

「鷹司氏の人生で最も大切な女性、一条絢子さんに、盛大な拍手を!」

司会者の声がスピーカーから響き渡り、周囲の通行人から感嘆の声とため息が漏れる。

「すごい……映画みたい」

「本当にお似合いの二人よね。まさに神仙眷侶だわ」

その囁き声の一つ一つが、静の心を切り刻むナイフとなった。鷹司暁の合法的な妻は、この私なのに。まるで日の光を浴びることのできない、ただの影だ。

急なめまいに襲われ、下腹部に鈍い痛みが走る。静は壁に手をつき、かろうじて立っているのがやっとだった。

どうやって帰ったのか、覚えていない。気づけば、静は誰もいない広大なヴィラのリビングに立っていた。ここが、暁との「新居」。彼が月に一度しか帰ってこない、冷たい箱。

家政婦の佐藤和江が、彼女の青白い顔を見て心配そうに声をかけてきた。

「奥様、お夕食のご用意は……」

静は力なく首を振り、食欲がないと告げた。疲れ切った体を引きずり、二階の寝室へ向かう。ウォークインクローゼットの扉を開けると、壁一面に並んだブランド物の服が目に飛び込んできた。すべて暁が買い与えたものだが、一度も外に着ていくことを許されなかった、見せかけの寵愛の証。皮肉な光景だった。

彼女はジュエリーボックスの奥深くから、結婚指輪を取り出した。華美な装飾の一切ない、シンプルなプラチナのリング。三年前、誰もいない区役所で、事務的に彼の指にはめられたものだ。今、その指輪は氷の枷のように冷たく感じられた。

静は指輪を抜き取り、ドレッサーの上に投げ捨てた。カチャリ、と乾いた音が響く。

ベッドに潜り込み、電気もつけずに暗闇に身を委ねる。彼女はただ、名ばかりの夫の帰りを待っていた。

時計の針が真夜中を指した頃、ようやく玄関で物音がした。暁が帰ってきたのだ。全身に高級な酒の匂いと……知らない香水の香りをまとって。

静の心にあった最後の微かな期待の灯が、完全に消えた。彼は、彼女が今日どこへ行っていたのか、体調はどうなのか、一言も尋ねなかった。

寝室のドアが開き、明かりがつけられる。ベッドの上で目を開けている静を見て、暁はわずかに眉をひそめた。

「まだ起きていたのか?」

その声に、気遣いの色は一切ない。ただの事実確認だ。

「少し、お話が……」

静が掠れた声で言うと、暁はネクタイを緩めながら、袖のボタンを外し始めた。

「疲れている。何か用なら、明日、加藤に連絡させろ」

彼は、彼女の青ざめた顔にも、赤く腫れた目にも、気づいていない。

そのままベッドに近づき、身を乗り出してくる。その声は、命令的だった。

「今日は月末だ」

それは、彼らの間で決められた「夫婦の義務」を果たす日。鷹司家の跡継ぎを作るための、月に一度の儀式。

彼が身を屈めた瞬間、静ははっきりと嗅ぎ取った。彼のシャツに染み付いた、一条絢子が愛用している香水の匂いを。その甘い香りが、静の胃の腑から吐き気をこみ上げさせた。

その瞬間、すべての屈辱、諦め、絶望が爆発した。

「やめてっ!」

静は力の限り彼を突き飛ばし、ベッドから身を起こした。初めて、彼の目を真正面から見据える。

「あなたのために、私は学業を諦めた。夢も諦めた。三年間、日陰の鷹司夫人を演じてきたわ。その結果が、これなの?」

涙が頬を伝う。

「鷹司暁、あなたは私を愛したことがありますか?たとえ、一秒でも?」

突然の抵抗に一瞬驚いた暁だったが、すぐに氷のような無表情に戻った。

「西園寺静。自分の立場をわきまえろ。非現実的な質問はするな」

彼の言葉は、氷の錐となって静の心を貫いた。

「お前が望んだ鷹司夫人の座は、与えてやった。それ以上を望むな」

その言葉で、すべてが終わった。

静は、笑った。涙を流しながら、壊れた人形のように、ただ笑い続けた。

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