
九条夫人はもう辞めた!~離婚後、冷徹総裁の修羅場~
章 2
高橋美咲は離婚協議書に、迷いを振り払うように一息で名を書き付けた。 ソファに深く身を沈める夫に背を向けたまま、美咲は逃げるように立ち上がると、二階の寝室へと駆け上がった。
健司の視線から逃れ、ドアを閉めた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。 美咲はその場に崩れ落ちそうになるのを、冷たいドアに背を預けることでかろうじて堪える。 身体の芯から力が抜け、指一本動かすことさえ億劫だった。
三年間の結婚生活は、寄せては返す波のように儚い幻だったのだろうか。 砂の城が波に攫われるように、それは今、跡形もなく崩れ去った。 誰を責めるでもなく、ただ虚しさだけが胸に広がっていく。
どちらが悪いわけでもなかったのかもしれない。 ただ、人の心だけは、どうしたって縛れないのだから。
ひとつ、深く息を吸い込むと、美咲は無心でクローゼットを開けた。 一枚、また一枚と、自分の服をスーツケースへと投げ込んでいく。まるで、過去の思い出ごと捨て去るように。
スーツケースに収まっていくのは、飾り気のないシンプルな服ばかり。 授かり婚だった。 悠真が生まれてからは、自分のことなど後回しで、ただひたすらに家庭を守ることだけを考えてきた。 いつしかお洒落をする気力も失せ、気づけばクローゼットの中は、動きやすさだけを重視した服で埋め尽くされていた。
この28インチのスーツケースひとつが、九条の家で築いた、私のすべてだった。スーツケースのキャスターが床を擦る音だけが、やけに大きく響く。
美咲は一度だけ足を止め、三年間を過ごした部屋の隅々まで目に焼き付けた。 こみ上げる想いを振り払うように、彼女は固く瞼を閉じ、そして、もう二度と振り返らなかった。
美咲はその前に静かに立つと、左手の薬指に食い込む結婚指輪に、ゆっくりと指をかけた。 そして、彼の目の前で、それを抜き取った。
「……返すわ」
健司は差し出されたプラチナの輝きを一瞥し、すぐにその視線を彼女の指へと移した。 白く残る、指輪の痕。
贈った時、この指輪は彼女には少し小さかったはずだ。必死にダイエットをして、ようやく指に通した時の嬉しそうな顔を、今でも覚えている。 あれから三年間、彼女がこの指輪を外したところを一度も見たことがなかった。
その指輪が、今、あっさりと外された。 その事実が、健司の胸に小さな棘のように突き刺さった。
彼は感情を押し殺すようにゆっくりと瞼を上げ、彼女の背後に立つ大きなスーツケースに目をやった。 途端に、不快感を隠せないまま眉が寄る。
「……そんなに急いで出ていくことはないだろう」
「え……?」
思わず健司を見つめ返す。 その声色に、ほんの少しでも後悔が滲んでいるのではないかと――そんな淡い期待が胸をよぎった。
だが、続く言葉は、その小さな希望の芽を無慈悲に踏み潰した。
「離婚手続きには一ヶ月はかかる。 その間に家でも探して、準備が整い次第出ていけばいい」
そのあまりに事務的な響きに、美咲の唇から乾いた笑いが漏れた。
彼女は静かに首を横に振る。 その瞳には、もう何の揺らぎもなかった。 「離婚するのなら、早い方がいいわ。 中途半端は、お互いのためにならない」
――これ以上、ありもしない幻想に、心をすり減らさなくて済むように。
健司は薄い唇を真一文字に結び、何かをこらえるように一瞬黙り込んだ。やがて、吐き捨てるように言った。「……好きにしろ」
「悠真に、挨拶してくるわ」
美咲が背を向けた、その時だった。 温度のない声が、背後から追いかけてくる。
「祖母さんが最近、何度か倒れられている。 強い心労は禁物だ。 俺たちの離婚は、当分伏せておけ」
その言葉に、美咲の脳裏に、慈愛に満ちた穏やかな顔が浮かんだ。 九条の、お祖母様の顔が。
この家で、 唯一心から自分を気遣ってくれた人。 理不尽なことがあるたびに庇い、 時には健司を厳しく叱りつけてくれた、 優しい人。
健司に言われるまでもなく、 お祖母様を悲しませることだけはしたくなかった。
「……わかりました」
あまりにあっさりと頷く美咲に、健司は内心で舌を巻いた。 祖母の寵愛を盾に泣き喚き、家に居座るだろうと踏んでいたのに。
今日の彼女は、まるで別人のように静かだった。探るような健司の視線が、美咲の顔に突き刺さる。
「当面、祖母さんの前では夫婦のふりを続けろ」
「ええ」
美咲は淡々と頷いた。 「悠真が起きているか、見てきます」
(息子の意思だけは尊重する人だ。 万が一、悠真が私と暮らしたいと言ってくれたなら……。 ) そんな一縷の望みに、彼女はすべてを賭けようとしていた。
一階の子供部屋の前で、美咲はそっとドアをノックした。
「悠真、 まだ起きてる? ママだけど、 少し入ってもいいかしら」返事はない。
しん、と静まり返ったドアの向こうに、胸が詰まる。 もう寝てしまったのだろうか。 諦めて踵を返そうとした、その時だった。 ――中から、弾むような楽しげな声が漏れ聞こえてきたのは。
「雲葉おばさん、明日もっと早く来てよ。 僕、おばさんの大好きなブルーベリーケーキ、用意しておくからね!」
ドアの隙間から漏れ聞こえてきたのは、甘えるような悠真の声。 その無邪気な響きが、ナイフのように美咲の胸を抉った。
その声は、かつて自分だけに向けられていたものだった。 いつからだろう。 息子が自分に向ける眼差しは冷たくなり、交わす言葉も棘を帯びるようになったのは。
美咲は一度、強く拳を握りしめ、そしてゆっくりと開いた。 迷いを断ち切るように、ドアノブに手をかける。
「悠真、少し、話があるの……」
美咲が部屋に足を踏み入れた瞬間、悠真は慌てて電話を切った。
ベッドに腰掛けたまま、小さな顔で母親を睨みつける。
「なんでノックもしないで入ってくるんだよ!」
その言葉は、鋭い刃となって美咲の胸を貫いた。 踏み出そうとした足が、縫い付けられたように動かない。 それでも、必死に笑顔を作った。
「ご、ごめんね。 急いでたから……。 あのね、悠真。 大事な話があるんだけど……」
「やだ!」
言葉が終わる前に、苛立ちを隠そうともしない声が遮る。 「どうしてママは、雲葉おばさんみたいに綺麗で優しくないの?」
美咲は呆然とし、一瞬、息子が何を言っているのか理解できなかった。
「ママは家のことしかできないくせに、パパのお金で偉そうにして、口うるさいだけじゃないか。 友達にママのこと聞かれても、恥ずかしくて何も言えないんだよ。 ……雲葉おばさんが、僕のママだったらよかったのに!」
あまりに無慈悲な言葉に、美咲は息が止まった。 何か言い返そうにも、言葉が見つからない。 当の悠真は、もう母親に興味などないというように俯き、スマートフォンの画面をなぞっている。
その液晶の光に照らし出されたのは、渡辺雲葉との楽しげなチャット画面。 それを見た瞬間、美咲の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
彼女は、もう一度だけ息子の顔を見た。 そして、何も言わずに部屋を出た。
そこからの行動には、もう何の迷いもなかった。 スーツケースを手に階下へ降り、玄関でスマートフォンをタップしてタクシーを呼ぶ。 ソファに座る健司には、視線ひとつくれなかった。
玄関のドアが閉まる乾いた音が響く。 その背中に一片の未練も見せずに出て行った女に、健司は舌打ちしたいような苛立ちを覚えていた。
タクシーが向かったのは、都心から少し離れた小さなアパート。 いざという時のために、と密かに借りていた自分のための城だった。 健司と喧嘩するたびに、ここで一人、頭を冷やした。 それがまさか、本当の「我が家」になる日が来るとは、夢にも思わなかった。
あまりに多くのことがありすぎた一日だった。 もう何も考えたくなくて、荷解きもそこそこに、美咲は冷たいシーツのベッドへ身体を投げ出した。
翌朝、美咲はタクシーで九条グループの本社ビルへと向かった。 退職届を、この手で提出するために。
そもそもこの会社に入ったのは、ただ健司のそばにいたい、その一心からだった。 彼との縁が切れた今、ここに留まる理由は何ひとつない。
「田中さん、退職手続きですが、本日付けでお願いすることは可能でしょうか」
美咲は、健司の私設秘書である田中成也の目をまっすぐに見つめて言った。
それだけに、突然の申し出に狼狽を隠せない。 「お、奥様……」額の汗をハンカチで拭い、視線を泳がせる。 「少々お待ちいただけますでしょうか。 九条社長にご指示を仰いでまいります」
田中は、社内で美咲の素性を知る数少ない人物の一人だった。
その名を聞いて、美咲の動きが止まる。「……どうしても、彼の許可が必要ですか」
田中は一層困り果てた顔で、「申し訳ございません。奥様のご入社は、社長の特別承認という経緯がございまして……」
「……わかりました。お手数をおかけします」美咲は静かに頷いた。
自席に戻り、気持ちを落ち着かせようとコーヒーを淹れかけた、その時だった。 ちん、と軽やかな音を立ててエレベーターの扉が開く。 現れた二人組の姿に、美咲は息を呑んだ。
一人は、見慣れた夫の姿。 けれど、その隣に立つ女性に向ける表情は、美咲が今まで一度も見たことのないものだった。 いつも氷のように冷徹な健司の瞳が、まるで春の陽射しを浴びたかのように、穏やかに細められている。
美咲は、自分が呼吸するのも忘れていることに気づいた。 まさか、こんな場所で――渡辺雲葉、その人に会うなんて。
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