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九条夫人はもう辞めた!~離婚後、冷徹総裁の修羅場~ の小説カバー

九条夫人はもう辞めた!~離婚後、冷徹総裁の修羅場~

九条奈央は三年間、夫への献身を尽くす「良妻」として過ごしてきた。深夜の看病や家事の一切を担い、冷え切った家庭に温もりを灯そうと努めてきたが、現実は残酷だった。夫は愛人を抱き寄せ、彼女を「財産目当ての卑しい女」と蔑み、実の息子までもがその女に懐いて奈央を拒絶する。離婚届を突きつけられ罵倒されたことで、彼女の心はついに決した。未練を断ち切り、家を去った奈央は、封印していたデザイナーとしての才能を開花させ、瞬く間に華やかな社交界の主役へと上り詰める。政財界の権力者たちがこぞって求婚するほど輝きを放つ彼女の前に、かつて自分を捨てた夫と息子が現れた。土砂降りの雨の中、膝をついて許しを請い、ようやく彼女の尊さに気づいたと嘆く九条。しかし、傍らに寄り添う新たな伴侶と共に、奈央は優雅な微笑みを浮かべて冷たく言い放つ。自分を蔑ろにした者たちに、もはや差し出す慈悲など残っていない。「すべては手遅れよ」と。失ってから気づいても、かつての献身的な妻が戻ることは二度とないのである。
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高橋美咲は離婚協議書に、迷いを振り払うように一息で名を書き付けた。 ソファに深く身を沈める夫に背を向けたまま、美咲は逃げるように立ち上がると、二階の寝室へと駆け上がった。

健司の視線から逃れ、ドアを閉めた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。 美咲はその場に崩れ落ちそうになるのを、冷たいドアに背を預けることでかろうじて堪える。 身体の芯から力が抜け、指一本動かすことさえ億劫だった。

三年間の結婚生活は、寄せては返す波のように儚い幻だったのだろうか。 砂の城が波に攫われるように、それは今、跡形もなく崩れ去った。 誰を責めるでもなく、ただ虚しさだけが胸に広がっていく。

どちらが悪いわけでもなかったのかもしれない。 ただ、人の心だけは、どうしたって縛れないのだから。

ひとつ、深く息を吸い込むと、美咲は無心でクローゼットを開けた。 一枚、また一枚と、自分の服をスーツケースへと投げ込んでいく。まるで、過去の思い出ごと捨て去るように。

スーツケースに収まっていくのは、飾り気のないシンプルな服ばかり。 授かり婚だった。 悠真が生まれてからは、自分のことなど後回しで、ただひたすらに家庭を守ることだけを考えてきた。 いつしかお洒落をする気力も失せ、気づけばクローゼットの中は、動きやすさだけを重視した服で埋め尽くされていた。

この28インチのスーツケースひとつが、九条の家で築いた、私のすべてだった。スーツケースのキャスターが床を擦る音だけが、やけに大きく響く。

美咲は一度だけ足を止め、三年間を過ごした部屋の隅々まで目に焼き付けた。 こみ上げる想いを振り払うように、彼女は固く瞼を閉じ、そして、もう二度と振り返らなかった。

美咲はその前に静かに立つと、左手の薬指に食い込む結婚指輪に、ゆっくりと指をかけた。 そして、彼の目の前で、それを抜き取った。

「……返すわ」

健司は差し出されたプラチナの輝きを一瞥し、すぐにその視線を彼女の指へと移した。 白く残る、指輪の痕。

贈った時、この指輪は彼女には少し小さかったはずだ。必死にダイエットをして、ようやく指に通した時の嬉しそうな顔を、今でも覚えている。 あれから三年間、彼女がこの指輪を外したところを一度も見たことがなかった。

その指輪が、今、あっさりと外された。 その事実が、健司の胸に小さな棘のように突き刺さった。

彼は感情を押し殺すようにゆっくりと瞼を上げ、彼女の背後に立つ大きなスーツケースに目をやった。 途端に、不快感を隠せないまま眉が寄る。

「……そんなに急いで出ていくことはないだろう」

「え……?」

思わず健司を見つめ返す。 その声色に、ほんの少しでも後悔が滲んでいるのではないかと――そんな淡い期待が胸をよぎった。

だが、続く言葉は、その小さな希望の芽を無慈悲に踏み潰した。

「離婚手続きには一ヶ月はかかる。 その間に家でも探して、準備が整い次第出ていけばいい」

そのあまりに事務的な響きに、美咲の唇から乾いた笑いが漏れた。

彼女は静かに首を横に振る。 その瞳には、もう何の揺らぎもなかった。 「離婚するのなら、早い方がいいわ。 中途半端は、お互いのためにならない」

――これ以上、ありもしない幻想に、心をすり減らさなくて済むように。

健司は薄い唇を真一文字に結び、何かをこらえるように一瞬黙り込んだ。やがて、吐き捨てるように言った。「……好きにしろ」

「悠真に、挨拶してくるわ」

美咲が背を向けた、その時だった。 温度のない声が、背後から追いかけてくる。

「祖母さんが最近、何度か倒れられている。 強い心労は禁物だ。 俺たちの離婚は、当分伏せておけ」

その言葉に、美咲の脳裏に、慈愛に満ちた穏やかな顔が浮かんだ。 九条の、お祖母様の顔が。

この家で、 唯一心から自分を気遣ってくれた人。 理不尽なことがあるたびに庇い、 時には健司を厳しく叱りつけてくれた、 優しい人。

健司に言われるまでもなく、 お祖母様を悲しませることだけはしたくなかった。

「……わかりました」

あまりにあっさりと頷く美咲に、健司は内心で舌を巻いた。 祖母の寵愛を盾に泣き喚き、家に居座るだろうと踏んでいたのに。

今日の彼女は、まるで別人のように静かだった。探るような健司の視線が、美咲の顔に突き刺さる。

「当面、祖母さんの前では夫婦のふりを続けろ」

「ええ」

美咲は淡々と頷いた。 「悠真が起きているか、見てきます」

(息子の意思だけは尊重する人だ。 万が一、悠真が私と暮らしたいと言ってくれたなら……。 ) そんな一縷の望みに、彼女はすべてを賭けようとしていた。

一階の子供部屋の前で、美咲はそっとドアをノックした。

「悠真、 まだ起きてる? ママだけど、 少し入ってもいいかしら」返事はない。

しん、と静まり返ったドアの向こうに、胸が詰まる。 もう寝てしまったのだろうか。 諦めて踵を返そうとした、その時だった。 ――中から、弾むような楽しげな声が漏れ聞こえてきたのは。

「雲葉おばさん、明日もっと早く来てよ。 僕、おばさんの大好きなブルーベリーケーキ、用意しておくからね!」

ドアの隙間から漏れ聞こえてきたのは、甘えるような悠真の声。 その無邪気な響きが、ナイフのように美咲の胸を抉った。

その声は、かつて自分だけに向けられていたものだった。 いつからだろう。 息子が自分に向ける眼差しは冷たくなり、交わす言葉も棘を帯びるようになったのは。

美咲は一度、強く拳を握りしめ、そしてゆっくりと開いた。 迷いを断ち切るように、ドアノブに手をかける。

「悠真、少し、話があるの……」

美咲が部屋に足を踏み入れた瞬間、悠真は慌てて電話を切った。

ベッドに腰掛けたまま、小さな顔で母親を睨みつける。

「なんでノックもしないで入ってくるんだよ!」

その言葉は、鋭い刃となって美咲の胸を貫いた。 踏み出そうとした足が、縫い付けられたように動かない。 それでも、必死に笑顔を作った。

「ご、ごめんね。 急いでたから……。 あのね、悠真。 大事な話があるんだけど……」

「やだ!」

言葉が終わる前に、苛立ちを隠そうともしない声が遮る。 「どうしてママは、雲葉おばさんみたいに綺麗で優しくないの?」

美咲は呆然とし、一瞬、息子が何を言っているのか理解できなかった。

「ママは家のことしかできないくせに、パパのお金で偉そうにして、口うるさいだけじゃないか。 友達にママのこと聞かれても、恥ずかしくて何も言えないんだよ。 ……雲葉おばさんが、僕のママだったらよかったのに!」

あまりに無慈悲な言葉に、美咲は息が止まった。 何か言い返そうにも、言葉が見つからない。 当の悠真は、もう母親に興味などないというように俯き、スマートフォンの画面をなぞっている。

その液晶の光に照らし出されたのは、渡辺雲葉との楽しげなチャット画面。 それを見た瞬間、美咲の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。

彼女は、もう一度だけ息子の顔を見た。 そして、何も言わずに部屋を出た。

そこからの行動には、もう何の迷いもなかった。 スーツケースを手に階下へ降り、玄関でスマートフォンをタップしてタクシーを呼ぶ。 ソファに座る健司には、視線ひとつくれなかった。

玄関のドアが閉まる乾いた音が響く。 その背中に一片の未練も見せずに出て行った女に、健司は舌打ちしたいような苛立ちを覚えていた。

タクシーが向かったのは、都心から少し離れた小さなアパート。 いざという時のために、と密かに借りていた自分のための城だった。 健司と喧嘩するたびに、ここで一人、頭を冷やした。 それがまさか、本当の「我が家」になる日が来るとは、夢にも思わなかった。

あまりに多くのことがありすぎた一日だった。 もう何も考えたくなくて、荷解きもそこそこに、美咲は冷たいシーツのベッドへ身体を投げ出した。

翌朝、美咲はタクシーで九条グループの本社ビルへと向かった。 退職届を、この手で提出するために。

そもそもこの会社に入ったのは、ただ健司のそばにいたい、その一心からだった。 彼との縁が切れた今、ここに留まる理由は何ひとつない。

「田中さん、退職手続きですが、本日付けでお願いすることは可能でしょうか」

美咲は、健司の私設秘書である田中成也の目をまっすぐに見つめて言った。

それだけに、突然の申し出に狼狽を隠せない。 「お、奥様……」額の汗をハンカチで拭い、視線を泳がせる。 「少々お待ちいただけますでしょうか。 九条社長にご指示を仰いでまいります」

田中は、社内で美咲の素性を知る数少ない人物の一人だった。

その名を聞いて、美咲の動きが止まる。「……どうしても、彼の許可が必要ですか」

田中は一層困り果てた顔で、「申し訳ございません。奥様のご入社は、社長の特別承認という経緯がございまして……」

「……わかりました。お手数をおかけします」美咲は静かに頷いた。

自席に戻り、気持ちを落ち着かせようとコーヒーを淹れかけた、その時だった。 ちん、と軽やかな音を立ててエレベーターの扉が開く。 現れた二人組の姿に、美咲は息を呑んだ。

一人は、見慣れた夫の姿。 けれど、その隣に立つ女性に向ける表情は、美咲が今まで一度も見たことのないものだった。 いつも氷のように冷徹な健司の瞳が、まるで春の陽射しを浴びたかのように、穏やかに細められている。

美咲は、自分が呼吸するのも忘れていることに気づいた。 まさか、こんな場所で――渡辺雲葉、その人に会うなんて。

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