
前任に譲った妻、今や最強の伝説に
章 3
「社長、レストランを予約しましょうか?」伊藤助手が、桜庭海の顔色をうかがいながら尋ねた。
桜庭海は苛立たしげに眉間を揉みしだく。「必要ない」
遠坂希が不満を発散させていることは、わかっていた。金を使うことで彼女の気が少しでも晴れるのなら、好きにさせればいい。
そう思った矢先、彼のスマートフォンに新たな決済通知が届いた。
――六億円超。
伊藤助手と四人のボディガードは、ただ黙って視線を落とす。誰もが口を開くことなく、荷物持ちという名の道具に徹していた。
希が宝飾品店から出てくると、ごく自然に、買ったばかりのジュエリーの袋を、何も持っていない伊藤に渡した。彼女が次の店へ向かおうとしたとき、桜庭海のスマートフォンが鳴った。
着信表示に目を落とした途端、彼の苛立ちが僅かに和らぎ、顰められていた眉も解ける。骨張った長い指で電話を取ると、その声は驚くほどに優しかった。「佳苑か」
伊藤助手:「……」
四人のボディガード:「……」
――社長! 奥様がまだここにいらっしゃることを、お忘れですか!
「社長、佳苑さんが病院へ検診に向かう途中で事故に遭いました! 今も手術室で、意識不明です!」 電話の向こうの声は大きく、切迫していた。「お手数ですが、こちらへお越しいただけないでしょうか。彼女、手術室に入る直前まで、ずっとあなたの名前を呼んでいたんです」
「住所を送れ。すぐに行く」 桜庭海の心臓が、きつく締め付けられた。彼は即座にそう答えた。
電話を切った後、彼は希の方に視線を向けた。
何か説明しようとしたが、やめて、遠坂希に指示を出した。「お前たちは希と買い物を続けろ。彼女が欲しがるものは何でも買え。持てないものは午後家に届けさせろ」
「はっ、承知いたしました」とボディガードたちが応じる。
桜庭海は長い脚を翻し、その場を去った。
後に残されたのは、希と、伊藤助手、そしてボディガードたち。
気まずい沈黙が、その場に流れた。
伊藤特助は、社長のメンツを保つために何か言わなければと思ったようだ。金縁メガネを押し上げ、お決まりの愛想笑いを浮かべた。「奥様、ご心配なく。社長は用事を済ませば、すぐに戻ってきます」
「お疲れ様」 希は、意味深長にそう言った。
伊藤助手:「?」
何を?
希は、華やかなモールを見渡しながら、ゆっくりと言った。「昼夜働くのはいいけど、良心に反してそんなこと言うなんてね。愛人のところに行って、途中で戻ってくる男がいると思う?」
伊藤助手:「……」
ボディガード一同:「……」
一瞬、彼ら五人の視線に、憐れみの色が浮かんだ。
これが、名家に嫁ぐということの苦しみなのかもしれない。
夫が他の女のもとへ行くのを知りながら、怒ることも、感情を露わにすることも許されないのだ。
「そんな目で私を見ないでちょうだい」
彼らの反応に、希は思わず笑ってしまった。 彼らの反応を見て、希は思わず笑った。そして現実を言った。「あなたたちが今持っている袋一つで、あなたたちの1年分、いや10年分の給料に相当するかもしれないのよ」
ズキッ!
それは、まさに会心の一撃だった。
その言葉は、あまりにも心に刺さる。
「何か欲しいものはある?」と、希が尋ねた。
五人は、一斉に顔を上げた。
頭の上には、無数の疑問符が浮かんでいる。
社長夫人の、その突飛な思考の飛躍に、誰もついていけなかった。
「あの人が愛人に会いに行くなら、私はあの人のお金であなたたちにプレゼントを買ってあげる」 希は手の中のカードを握りしめ、先程よりも少し声のトーンを落とした。
彼女自身、桜庭海が「白月光」のために自分を置き去りにしたことを、まだ気にしているとは気づいていなかった。
今の彼女が望むのはただ一つ。彼のカードの限度額を使い切ることだけだった。
伊藤助手:「!」
ボディガード一同:「!」
五人は、驚愕の眼差しで彼女を見つめた。
この人たちの反応は面白いわね、と希は思いながら、カードを片手に買い物を続けた。
桜庭海が一日中病院であの女の世話をしていると思っていた。まさか、彼らが食事をしているときに彼が戻ってくるとは。全身から冷たい気を放ち、その目は刃のように鋭かった
誰もが反応する間もなく、彼は希の腕を掴んで駐車場へと引きずっていく。
その手首を握る力は、異常なほどに強かった。
「ドンッ!」
鈍い音と共に、希は車のボディに叩きつけられた。
全身に走る痛みに、思わず眉を顰める。
――火薬でも食べたのかしら?
彼女が態勢を整えるより早く、問い詰める声が耳元で爆発した。
「なぜ佳苑を傷つけたッ!」桜庭海の全身が、凄まじい怒りに燃えていた。僅かでも理性が残っていなければ、彼は自分の力を制御できなかっただろう。「なぜ車を差し向けて彼女を轢かせた!」
「お前が欲しがった車も、家も、金も、全部やるって約束したはずだ!」
「これ以上、何がそんなに不満なんだ!」
桜庭海は、まるで地獄の底から現れたかのようだった。その身に纏う気は、森然と冷たい。
深く昏い光を宿したその双眸は、見る者を呑み込んでしまいそうなほど鋭く、冷たかった。
「私がいつ彼女を傷つけたと?」罵倒された希は、完全に混乱していた。
「今さら知らないふりか?」桜庭海の声は冷たく響いた。「買い物の時間をわざわざ今日にしたのは、このチャンスを利用して佳苑を車でひき殺させるためだったんだろう?」
「お前も知ってるだろ。俺が彼女と一緒にいるなら、たとえ俺が死んでも彼女に指一本触れさせない」
桜庭海の一言一句が、身も凍るような冷たさを帯びていた。
希は、最初は激しい怒りに襲われた。だが、彼のその言葉を聞いて、かえって冷静になった。
彼女はただ彼を見つめ、声に嘲りを滲ませる。「不貞行為を、そこまで清らかに語れるなんて。桜庭社長、あなたが初めてよ」
「遠坂希ッ!」桜庭海が吼えた。
「頭がおかしいのなら、治すべきだわ」 希は、相手が誰でも、言い出したら容赦しない。「物事を考えるときは頭を使いなさい。私がどうして離婚後の素晴らしい生活を台無しにしてまで、人を雇って彼女をひき殺す必要があるの?私に何の得があるの?」
「何の得だと?」 桜庭海の纏う気配が、ますます危険なものへと変わる。
その様子を見て、希は瞬時に理解した。「……まさか、私があなたを欲しがっているとでも?」
桜庭海は答えなかった。
だが、その表情と態度は、雄弁に語っていた。――そうではないのか、と。
「あなたに何を求めるっていうの?」希は立て続けに問い、その思考はどこまでも明晰だった。「私があなたの『身代わり』だったこと? それとも、あなたのその浮気する度胸? まさか、心の中で他の女を想い続けていることかしら?」
桜庭海:「……」
その言葉が耳に突き刺さるのを感じ、彼は弁解した。「俺は、浮気はしていない」
「精神的な浮気も、立派な不貞行為よ」 希は、一切の情けをかけなかった。
桜庭海は眉を寄せる。「話を逸らすな」
「問題を起こしているのは、あなたの方でしょう」 希は、真っ向から言い返した。
桜庭海は黙った。深渊のような暗い目が彼女を見下ろした。その強い圧迫感は、まるで今日初めて彼女を知ったかのようだった。
希は、これ以上ここで彼と時間を無駄にする気はなかった。濡れ衣を着せられるのは、ごめんだ。「彼女が、私が人を雇って轢かせたと言ったから、あなたはそれを信じているの?」
「そうだ」 桜庭海の怒りは、彼女の率直な視線を受けて徐々に鎮まっていった。だが、全身の冷気は消えない。「彼女は、俺に嘘をついたことなど一度もない。それに、彼女はお前がやったという証拠も持っている」
希は、すっと眉を上げた。
バッグを握る手に力が入った。声に感情がにじんだ。「わかったわ。車に乗りなさい。一緒に病院に行って、彼女に会ってあげる」
その言葉と共に、桜庭海の周りを覆っていた冷気が霧散した。彼女が、これほど協力的だとは、思いもよらなかったのだ。
もし本当に彼女がやったのなら、自ら現場へ赴くはずがない。
一瞬、彼の心に矛盾が生じた。
一瞬、彼の心に矛盾が生じた。あの証拠を、信じるべきか、否か。
「どいて」 自分を塞ぐように立つ彼の身体を睨みつけ、希は冷たく三文字を告げた。
桜庭海は彼女を離した。全身から拒絶の気を放つ女を見ていると、言いようのないいら立ちが湧き上がった。彼はその感情を押し殺し、車のキーを取り出してドアを開けた。
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