
離婚後、傅夫人の真実の姿が完全に暴かれた。
章 2
「秦文祢、このキチガイ女!」
黒岩心温の甲高い叫びが、背中に突き刺さる。 けれど文祢は一度も振り返ることなく、書斎を後にした。
部屋を出た途端、スマートフォンの通知が軽快に鳴った。
深見伊織: 「ねえ姉さん、 今夜マジでバー 『緋朱』 に来ないの? 結婚は出家じゃないんだから、 黒岩一真のあのアホのために昔の仲間まで捨てることないでしょ。 お願いだからさ、 今夜あんたが来ないとkrisにスマホ爆破されるって!」
秦文祢:「ええ、あなたの言う通り」
深見伊織:「?」
秦文祢:「離婚したわ。 今日から、俗世に帰還する」
一秒の静寂の後、チャット画面は瞬く間に「!」で埋め尽くされ、伊織の興奮が画面越しに伝わってくるようだった。
「十分だなんて言わないで! 女帝がその領地へお戻りになるのだ、この私が八分で恭しくお迎えに上がりますとも!」
書斎のドアが 「バン!」 と乱暴に閉められるまで、 心温は目の前で起きたことが信じられずに呆然としていた。 やがて我に返ると、 憤然として一真に詰め寄る。 「お兄ちゃん、 あの女が私をいじめるのを黙って見てるだけなの? ダメよ、 早くあいつを引きずり戻してぶん殴って! 私もあいつの顔に水をぶっかけてやるんだから……」
「もういい加減にしろ!」
一真の冷たい声が、彼女の言葉を遮った。 「自分の今の姿をよく見てみろ。 名家の品格が欠片でもあるのか? お前は黒岩家の娘だぞ、そこらの口汚い女とは違う!」
兄からこれほど厳しく叱られたことのない心温は、驚きのあまり瞬時に言葉を失った。
しばらく黙って一真が仕事をするのを見つめていたが、やがておずおずと口を開いた。 「あの、お兄ちゃん。 車が運転できないなら、せめて今夜の歓迎パーティー、一緒に連れて行ってくれませんか? 理紗お姉さんにもずっと会ってないし、会いたいんです!」
一真はうんざりしたように手を振った。 「好きにしろ。 仕事の邪魔だ」
それが許可の合図だと悟ると、心温はたちまち機嫌を直し、意気揚々と書斎を出て行った。
静まり返った部屋で、パソコンの画面だけが煌々と光り、一真の虚ろな瞳を映し出す。 なぜだろう、どれだけ思考を仕事に向けようとしても、文祢が花瓶を逆さに心温の頭上へぶちまけた光景が、焼き付いたように脳裏をちらつく。
自分は、この妻のことを、本当は何も知らなかったのではないか。 そんな奇妙な感覚に、一真は囚われていた。
深見伊織は昔から有言実行の女だ。 十分と言いながら、きっかり八分後にはGクラスを乗りつけ、飛び出すように車から降り立つと、屋敷から出てきた文祢に高らかに口笛を吹いた。
「祝・姉さん、シャバへのお帰り!」
文祢が反応する間もなく、伊織は抱えていたシャンパンボトルのコルクを親指で弾き飛ばす。 威勢よく飛び出したコルクに続き、勢いよく噴き出した泡が、あっという間に文祢の上半身をシャンパンの飛沫に濡らした。
「禊のゆず湯は間に合わなかったから、代わりにロゼで厄払いよ。 悪くないでしょう?」
文祢は「ちっ」と軽く舌打ちし、バッグを後部座席に放り込む。 すると伊織が車のキーを目の前に突きつけてきた。 「カスタムしたGクラスよ。 乗りたくない? 四年間もご無沙汰なんでしょ。 どうぞ」
文祢はその手を軽く払い、長い脚を助手席に滑り込ませた。 「そういう気分じゃない」
伊織はにやりと口角を上げ、アクセルを踏み込むと猛然と屋敷を飛び出した。 隠す気もない嘲笑を声に滲ませて言う。 「で、白状なさいよ。 あんたのその救いようのない恋愛脳を叩き直したのは、一体何?」
文祢は片手を首の後ろに回す。 車窓を流れていく光が、過去の四年間との決別を告げているようだった。
「宝木理紗が、帰ってきたの」
伊織はそれを聞いて、堪えきれないといったふうに笑い出した。「あんたと黒岩一真って、本当にお似合いよね。 揃いも揃って、ろくでもない相手に執着する意地っ張り。 時々あんたたち、DNA鑑定でもしたくなるわ。 なんで二人してそんなガラクタ拾いに人生賭けてるのよ」
耳元で伊織がまくし立てているが、文祢の意識は少しだけ宙を彷徨っていた。
文祢にとって、宝木理紗の記憶はほとんどない。 優しくて、物分かりがよく、思いやりに満ちている。 それが、文祢の中にある理紗のすべて。 そして、その偶像をなぞるために、丸四年という歳月を費やしたのだ。
あの人の、指通りのよさそうな黒髪のストレートを、品のある装いを、穏やかな物腰を。 そのすべてを、文祢は懸命に真似たのだ。 すべては、あの人の視線を一瞬でも自分に引き留めたくて。
だが、偽物は所詮、偽物に過ぎない。
文祢は気怠げに、力の抜けた声で言った。 「ムショ帰りの女なんて、誰も好きになってくれないでしょ」
伊織は天を仰いで大袈裟に白目を剥いた。 「まだその話? あんたのあのイカれた義妹が、聖心会での全寮制訓練を『ムショ入り』だってデマを流さなきゃ、黒岩一真の奴がどの面下げてあんたに偉そうな口を利けたって言うのよ!」
「あ、そうだ。 離婚して暇になったでしょ、来週の東海夜虹レース、行かない?」
「行かない」
文祢は肘をついて頬杖をついた。 「動きたくない」
伊織は訝しげに彼女を窺う。 「あんた、まさかまだ失恋を引きずってるわけ?」
文祢は答えなかった。 だがその急に翳った表情から、伊織は自分の推測が的を射ていることを瞬時に悟った。
歯がゆさに何か罵倒しかけたが、 ふと、 悪戯っぽく瞳を輝かせた。 「 『宵闇の月』 も来るらしいわよ! 当時、 レース界に彗星の如く現れた、 あんたと唯一張り合えた好敵手。 あいつのマスク、 剥がしたくないの?」
東海夜虹レース。 それは、富裕層や名家の人間だけが集う、大規模なアンダーグラウンド・レース。 参加者は皆、自ら改造したマシンを駆り、高い技術を競い合う。 スリルと隣り合わせのレースは、一歩間違えば命の危険さえある。
そんな非日常の舞台だからこそ、主催者は粋な計らいを設けていた。 参加者全員に、仮面の着用を義務付けるのだ。 ここでは素性を問われず、ただ勝敗のみがすべて。 対戦相手を指名し、相手が応じれば、勝者はその場で相手の仮面を剥がす権利が与えられる。 仮面を剥がされること。
それは、東海夜虹レースからの永久追放を意味していた。
文祢の瞳が、微かに煌めいた。 そして、すっと身を起こす。 「いいわ。 行ってみる」
彼女は俯いて自分の服の裾を引いた。 「その前に、着替えたい」
伊織は良妻賢母を体現したようなその装いを一瞥し、唇を尖らせた。 「また尼さんみたいな格好に着替える気? あんたがそんな格好でバーに行ったら、あたしが堅気の娘を攫ってきたって勘違いされるじゃない!」
文祢は片眉をくいと上げた。 「誰がまだ、そんな格好するなんて言った?」
三十分後、バー「緋朱」。
二階フロアでは様々な人々が行き交い、グラスを傾けていたが、誰もが思わず、隅のボックス席に腰掛ける一人の女性に目を奪われていた。
燃えるような真紅の、裾を大胆にカットしたロングドレス。 その姿は、まるで香港映画から抜け出してきたい前世紀のポスターガールのようだった。
「あんたがそんな鮮やかな色を着るの、どれだけぶりよ!」伊織が感嘆の声を漏らす。 「抜群のスタイルしてるくせに、毎日スーツだの所帯じみた地味なワンピースだのばっかり。 黒岩家で事務員でもやってんのかと思ったわ」
文祢は俯いて微笑むだけで、何も答えなかった。
結婚したばかりの頃、彼女も早起きして化粧をし、念入りに選んだドレスを身に纏ったことがあった。 しかし、階下に降りた途端、姑の黒岩美代子に「派手だ」「はしたない」と罵倒された。 女は良妻賢母であるべきで、そんな格好で家事ができるのかと。 そして、一真はただ、冷めた目でこちらを見るだけで、何も言わずにその言葉を肯定していた。
だが、今はもうどうでもいい。 黒岩家という名の檻から解き放たれた今、彼女は好きな服を自由に着ることができるのだから。
話していると、突然、伊織のスマホが鳴った。 彼女はさっと顔色を変え、文祢にスマホを振りながら言う。 「ごめん、ちょっと電話出てくる」
伊織が席を立った直後、文祢は先ほど手の甲についてしまった酒の染みを拭き取ろうとしていた。 その時、ぬっと伸びてきた脂ぎった大きな手が、彼女の肩を無遠慮に掴んだ。
「お嬢ちゃん、一人? よかったら俺たちと飲まない?」
おすすめの作品





