
離婚後、傅夫人の真実の姿が完全に暴かれた。
章 3
バー緋朱の重厚な扉を開けると、黒岩一真を出迎えたのは喧騒と紫煙だった。 奥のボックス席では、宝木理紗とその友人たちが、まるで主役の到着を待ちわびていたかのように一斉にこちらを向いた。
「理紗姉さん、会いたかったー!」
弾かれたように駆け寄った黒岩心温が、宝木理紗の身体にじゃれつくように抱きついた。
理紗はそんな心温の頭を優しく撫で、「もう、相変わらず甘えん坊さんね」と慈しむように微笑んだ。
彼女はふと顔を上げ、向かいに座る表情の硬い男――一真へと視線を流し、わざとらしくため息をついてみせた。 「でも、こうして私の帰りを心待ちにしてくれていたのは、心温ちゃんだけみたいね」
心温はぱっと身体を起こすと、兄を援護するように声を張り上げた。 「そんなことないよ!お兄ちゃんだって、理紗姉さんにずっと会いたがってたんだから。 姉さんが帰ってくるって聞いて、すぐにあの女と離婚したくらいなんだからね!」
その言葉に、周りの友人たちが「ひゅーひゅー」と囃し立てる。 理紗は「もう、心温ちゃんたら」と口では言いながらも、その口元に浮かんだ笑みは隠しきれていなかった。
幾夜も夢に見た光景のはずだった。 焦がれ続けた女性が、今、目の前に座り、期待に満ちた眼差しを向けている。 それなのに、一真の胸に渦巻くのは歓喜ではなく、正体のわからない居心地の悪さだった。
何か言わなければ、と一真が口を開きかけた、その時。 隣の友人が肘で突き、下卑た声で囁いた。
「おい、黒岩。 あれ、お前の嫁さんじゃねえか?」
弾かれたように振り返った一真の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。 ゆったりと波打つ髪、挑発的なほど深紅のリップ。 ウエストを大胆に絞った真紅のロングドレスは、しなやかな腰のラインを際立たせ、アシンメトリーな裾からのぞく脚は、息をのむほどに美しい。 そこにいたのは、一真の知る秦文祢とはまるで別人の、妖艶な魅力を振りまく女だった。
文祢は、頭の大きな腹の出た男と、その取り巻きらしき若者たちに囲まれ、あからさまに顔をしかめている。
「あれ、久松んとこの次男坊、久松辰巳じゃねえか。 札付きのワルで有名だぜ。 あいつに目をつけられたらやべえぞ」
「いやいや、案外、本人も満更じゃなかったりしてな。 まともな女が、亭主と別れた途端にあんな派手な格好でバーに来るかよ。どう見たって男漁りだろ!」
「つーか、黒岩の嫁ってあんなナイスバディだったんだな。 いつも地味な格好してるから、てっきり寸胴かと……」
心温までもが、嘲るように唇を歪めた。 「当たり前でしょ。 あんな尻軽みたいな格好、男を誘ってるのと一緒よ。 お兄ちゃんに捨てられた“お古”なんだから、必死に次の相手を探さないとね!」
下卑た笑い声がボックス席に響く。 その瞬間、一真の中で何かがぷつりと切れた。 腹の底から突き上げてくる、自分でも制御できない怒り。 「黙れ!」
地を這うような低い声が響き渡ると、騒がしかったテーブルは水を打ったように静まり返った。
氷のような眼差しで妹を射抜き、一真は吐き捨てるように言った。「これ以上、品のない口を利くなら、ウィンザー学府にでもどこへでもとっとと戻れ。 くだらん連中と夜遊びにうつつを抜かしている場合か」
兄の剣幕に怯え、心温の目がみるみるうちに潤んでいく。 その時、隣にいた理紗がそっと一真の手に自分の手を重ねた。 一真が振り向くと、彼女は諭すように、それでいてどこか甘えるような声で言った。 「一真、心温ちゃんはまだ子供よ。そんなにきつく叱ってあげないで」
一呼吸置き、理紗は視線を少し離れた文祢へと移す。 「……やっぱり、私のせいなのね。 私が帰ってこなければ、文祢さんもあんな……自暴自棄な真似はしなかったでしょうに」
「違う」一真の眼差しに、冷たい光が宿る。「あいつが勝手に身を持ち崩しただけだ。 誰も何も強制していない」
その言葉を証明するかのように、文祢は絡みついてきた久松辰巳の脂ぎった手を、肩をひねって乱暴に振り払った。 「失せろ!」
大勢の手下の前で面子を潰され、辰巳の目に凶暴な光が宿った。 一歩踏み込むと、無理やり文祢の細い腰を抱き寄せ、紫がかった分厚い唇をねじ曲げて彼女の顔に近づける。 「つれないこと言うなよ。 ほら、俺がたっぷり可愛がってやるからよぉ!」
豚のような顔が醜く歪み、突き出された唇が肌に触れようとした、その刹那。 文祢は、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
ガシャン!――けたたましい破壊音。
彼女はすぐ側のテーブルからビール瓶をひったくると、躊躇なく辰巳の頭頂部へ振り下ろしていた。
バーの喧騒を切り裂く音。 辰巳は砕けたガラスと血にまみれた頭を抱え、豚の断末魔のような悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
「クソがッ!このアマ、よくも……!」
文祢は割れた瓶の首をまるでナイフのように握りしめ、悠然と立ち上がる。 その切っ先を辰巳に向け、蔑むように冷笑した。 「もう一度、その汚い手で私に触れてみなさい。 今度こそ再起不能にしてあげるわ」
辰巳は床に蹲ったまま、憎悪に顔を歪めて歯ぎしりした。 「てめえ、俺を誰だか分かってんのか!久松グループの社長は俺の兄貴だぞ。 俺の一言で、お前みたいな女一人、この明央区から消すことなんざ朝飯前なんだよ!」
文祢はカラン、と割れた瓶を床に投げ捨てると、傍らに置いていたエルメスのバーキンを手に取り、無言で中を探り始めた。
その様子を、辰巳は自分の家名に怯えたのだと勘違いし、途端に勢いづく。 「これで済むと思うなよ、アマ!傷害罪だ、慰謝料で全財産ふんだくってやる!これから病院で精密検査を受けて、警察にいる叔父貴に電話一本入れりゃ、てめえは豚箱で臭い飯を食うことになるんだよ!」
「お兄ちゃん、 何するの!?」
辰巳の罵声が続く中、 一真がすっくと立ち上がった。 心温が驚いて、とっさにその袖を掴む。 「まさか、 あの女を助けに行くつもりじゃないでしょうね?」
一真は冷たくその手を振り払った。 「まだ離婚は成立していない。 戸籍上、あいつは今も俺の妻だ。 秦文祢を侮辱することは、この黒岩家を侮辱することに等しい」
「でも、あいつが黒岩の嫁だって、ここにいる誰も知らないじゃない!お兄ちゃんが出ていかなければ、どんな目に遭ったって自業自得よ……!」
なおも食い下がる心温だったが、 兄の剃刀のような鋭い視線に射すくめられ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
その時、理紗がすっと立ち上がった。 「私が行ってみるわ。 久松のお兄様とは、以前お仕事でご一緒したことがあるの。 私の顔を立てて、弟さんも文祢さんにあんまり無茶はしないはずよ」
断ろうとする一真の腕をそっと掴み、理紗は慈愛に満ちた瞳で囁く。 「あなたの問題は、私の問題でもあるのよ、一真」だが、理紗が歩き出すより早く、事態は誰もが予想しない方向へ転がった。
文祢がバーキンから取り出したのは、分厚いドル札の束。 次の瞬間、彼女はその札束を、辰巳の顔面めがけて叩きつけた。
「バサッ!」
という乾いた音と共に、万緑の紙片が宙を舞う。
それはまるで緑色の吹雪のように、バーの空間を埋め尽くした。 舞い散る紙幣の雨の中、真紅のドレスを纏った女は、床に這いつくばる男を見下ろし、この世のものとは思えぬほど妖艶に微笑んだ。
「その怪我の慰謝料、これで足りるかしら?」
屈辱に顔を真っ赤にした辰巳が、背後の手下たちに金切り声を上げた。 「あの女を捕まえろ!殺せ、八つ裂きにしてやる!まだそんな口がきけるか、思い知らせてやれ!」
手下たちが一斉に飛びかかろうとした、その時。 凛、と張りのある女の声が、その場の空気を凍らせた。 「殺すって、誰を?この深見伊織の目の前で、あたしのダチに指一本でも触れられるってんなら、ぜひ拝見したいもんだね」
辰巳の顔から、さっと血の気が引いた。 いつの間にか文祢の隣には、肩に担いだ野球バットがやけに様になる女――深見伊織が立っていた。 伊織は、まるで屠殺される前の豚でも見るかのような目で辰巳を見つめ、にっこりと笑う。
「あんたの兄貴ですら、あたしを『姐さん』って呼ぶんだよ。 どの口が、あたしのダチに吠えてんだ、あぁ?」
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