
モラハラ元夫からのグロテスクな求愛は着信拒否で。私は新恋人の腹筋を眺めます
章 3
数年ぶりに会った男は、相変わらず気高く人を寄せ付けず、以前よりも落ち着きと深みを増していた。
五年前、長瀬詩織が田舎の叔父さんの家に遊びに行った際、叔父さんが山から滑落した男を助け出したのだが、それがこの不運な男だ。
新井怜だ。
後になって知ったことだが、彼の新井という姓は、北城で絶大な権力を誇る新井家のものだった。
権力と富の頂点に君臨する一族だ。
そして新井家の唯一の跡取りである彼は、北方の経済の大部分を掌握する、まさに財界のプリンスそのものだった。
車のライトが彼を照らすと、後光が差したように見える。
電話を切り、詩織は微笑みながら男に挨拶した。「お久しぶりです。お元気でしたか?」
怜はただ淡々と一言だけ返した。「ああ」
詩織は唇を引き結んだ。従兄も出世したものだ。まさか新井怜のような雲の上の存在と繋がりがあるなんて。
車の後部座席に乗り込むと、詩織は背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上にきちんと揃えて座った。
まるで先生の前にいる小学生みたいに、姿勢を正して縮こまっている。少しでも気を抜けば叱られるのではないかと、緊張しているのが見え見えだ。
さすが大物、というべきか。彼が一言も発さずとも、車内には息が詰まるような重圧が立ち込めている。
ホテルのエントランスに到着するや否や、詩織は礼を言い、逃げ出すように車のドアを開けた。
怜は目を細めた。(そんなに俺が怖いのか?)
エレベーターの中は二人きりだ。先ほどの息が詰まるようなプレッシャーが、再び押し寄せてきた。
怜が口を開いた。「叔父さんは元気か?」
詩織は一瞬言葉を失った。湿気を帯びた空気のせいか、彼女の瞳には薄っすらと涙の膜が張った。「……叔父さんは、半年前に亡くなりました」
彼女は努めて穏やかな声を出そうとしたが、それでもかすかな震えと掠れが混じった。
叔父さんの死はあまりにも突然で、彼女は長い間深い悲しみに沈んでいたのだ。
あの時、もし叔父さんが母娘を家に迎え入れてくれていなかったら、彼女と母は間違いなく路頭に迷っていただろう。
怜は一瞬息を呑んだように固まり、その瞳を一段と暗くした。ここ数年、彼はずっと海外に身を置いており、最近帰国したばかりだったため、国内の事情には疎かったのだ。
彼はそっと目を伏せ、その瞳に一瞬、惜しむような色がよぎった。そして手を伸ばし、詩織の頭を軽くぽんと叩いた。「……ご愁傷様」
まさか彼からそんな仕草が返ってくるとは思っていなかった詩織は、数秒間呆然とした後、慌てて俯いた。
エレベーターはすぐ三階に到着した。
ドアが閉まりきっていない個室の前を通りかかった時、詩織はふと足を止めた。
怜が彼女の視線を追うと、部屋の中では大勢の人が集まって騒いでいる。テーブルの上には大きなケーキが置かれている。
一組の男女が彼らに背を向けてケーキの前に立っている。男が女の首に、ネックレスをかけているところだ。
その光景は、やはり詩織の胸を鋭く刺した。彼女の目頭が、微かに赤く染まった。
怜は彼女を見下ろした。「知り合いか?」
「ええ」 詩織は込み上げる感情をぐっと堪え、努めて平静を装って言った。「立っているあの男は私の夫で、女は彼が囲っている女。……私の、腹違いの妹です」
牧野雄介が長瀬美月につけてやったあのネックレスは、彼が数ヶ月も前からジュエリーショップで予約していた限定品だ。私の誕生日プレゼントに贈ると、そう言っていたのに。
それなのに今、彼はそれを別の女に贈っている。
なんて皮肉なのだろうか!
身内の恥をさらすようだけど、ここ数年、雄介が外で女を作って遊び歩いていることは、彼女以外の誰もが知っている。陰で笑い者にされ、格好の噂の的になっていた彼女に、体裁もへったくれもない。
どうせ1ヶ月後には正式に離婚するのだ。今さら隠し立てすることもない。
詩織は胸の奥に微かに広がる苦みをぐっと押し殺し、視線を外し、予約していた別の個室に向かった。
怜は底知れぬ漆黒の瞳で彼女の背中を数秒見つめ、ふいに声をかけた。
「詩織」
声に気づき、詩織は振り返って彼を見た。
「叔父さんは亡くなってしまったが、俺は今でも彼に命を救われた恩義を感じている。だから、君の願いを一つ叶えたい」 怜はゆっくりと歩み寄り、詩織の頭上から低く響く声で告げた。「どんな願いでも構わない」
詩織の目がパッと輝いた。
(こんなにいい話があるなんて!)
(この人は本当にいい人だ!)
詩織は拝むような気持ちで礼を言った。「本当ですか……ありがとうございます」
……
個室に入ると、詩織は笑顔で挨拶をした。「おじさん、おばさん、直樹お兄ちゃん」
叔母の由利は詩織の手を引き、自分の隣に座らせた。また一回り細くなった彼女を見て、胸を痛めて言った。「どうしてこんなに痩せちゃったの?また仕事が忙しくて、ちゃんとご飯を食べてないんじゃない?」 また仕事が忙しくて、ちゃんとご飯を食べてないんじゃない?」
詩織は自身の手のひらほどしかない小さな顔に触れ、どう返せばいいのかわからずに言葉を濁した。
実際のところ、彼女は仕事にのめり込むと寝食を忘れるタイプだ。
食事を摂ることなどしょっちゅう忘れており、胃酸が込み上げてくるほどの空腹を感じてから、ようやく食べていなかったことに気づく。そのため常に胃薬を持ち歩き、痛むたびに一錠飲んでやり過ごしていたのだ。
先週の健康診断で異常が見つからなければ、自分が胃がんを患っていることなど知る由もなかっただろう。ずっと、ただの胃の不調だと思い込んでいたのだから。
医師の言葉によれば、彼女の胃がんは不規則な食生活だけが原因ではなく、長期にわたる精神的な抑うつ状態も引き金になっているとのことだ。
気に病みすぎるな、若い娘がそうカリカリするもんじゃない、と医師は窘めた。
かつて美月の母親が父親を奪ったように、今度は美月自身が同じ手口で、またしても夫を奪おうとしている。
詩織は心の中で自嘲した。
あんな最低な男と下劣な女のために、自分の命を削るなんて。本当に大馬鹿者だ。
今の彼女は抗がん剤を飲むだけでなく、規則正しく三食を摂り、何より心を穏やかに過ごすことを心がけなければならない。
あのクズどものことなんか気にしなくなってから、彼女を覆っていた真っ暗な空は、嘘のように晴れ渡っている。
長瀬由利は詩織からの返事がないのを見て、心配そうに尋ねた。「詩織、おばさんの話、聞いてる?」
ハッと我に返り、詩織は由利に向かって微笑んだ。「由利おばさん、ちゃんとご飯は食べてるわ。ただ、最近暑くて薄着になったから、痩せて見えるだけよ」
その時、叔父の茂が詩織にメニューを差し出した。「詩織、好きなものを遠慮なく頼みなさい。こいつに気を遣うことないから」
「こいつが今日昇進したからな、お前たちを呼んで祝ってもらおうってわけだ」
詩織はメニューを受け取った。「直樹お兄ちゃん、昇進おめでとう」
直樹は笑って頷いた。「遠慮すんなよ。好きなものをどんどん頼め」
詩織はメニューに目を落とし、値段が手頃な料理をいくつか選んで注文した。
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