
死亡フラグを物理で叩き割ったら、家族全員がホームレスになりました。
章 2
池田寂は、呆気に取られた。
聞き間違えたのかもしれない。いや、そもそも時雨の口からそんな言葉が出るなど、考えもしなかったのだ。
「はっ、やっぱり何ともないんじゃないか!」寂は冷笑を浮かべ、一歩前へ出ると、水無瀬時雨の顔を指差した。「死んだふりまでして、ずいぶん手の込んだ芝居だな」
時雨は、ただ静かに彼を見つめていた。
頭には分厚いガーゼが巻かれ、そこからはうっすらと血が滲んでいる。
左脚はギプスで固められ、高く吊られていた。 体には心電図モニターのコードが繋がれ、鼻には酸素チューブが差し込まれている。
それでも寂は、彼女が大した怪我でもないのに大袈裟に構えている——と、本気で思っているらしい。
この男は、心が見えないだけではない。目まで、救いようがないほど節穴だった。
傍らにいた新城瑞希は、見計らったように涙を二粒こぼし、寂の袖をそっと引いた。「時雨さん、全部私が悪いんです……。私が時雨さんを怒らせるようなことをしたから……。 それなら、私が土下座して謝ります……」
そう言って、瑞希は本当にその場に膝をつこうとした。
寂はすぐさま彼女の腰を抱き止め、自分の胸元へ引き寄せた。その顔には、痛々しいほどの執着が浮かんでいる。 そして、吐き捨てるように続けた。「こいつに、そんな価値があるか!」
寂は時雨へ顔を向け、怒りを露わにして声を荒げた。「水無瀬時雨。これが最後の警告だ」
「今すぐ瑞希に謝れ。さもなければ、俺は絶対にお前と結婚しない!」
病室が、しんと静まり返った。
聞こえるのは、心電図モニターが刻む規則正しい音だけ。ピッ――ピッ――。
寂は顎をわずかに上げたまま、時雨がいつものように泣き崩れ、必死に許しを乞うのを待っていた。
今までだって、そうだった。婚約破棄をちらつかせれば、時雨はたちまち怯え、残っていた尊厳さえ投げ捨てて、彼に縋りついてきた。
時雨は天井を見つめたまま、ゆっくりと息をした。
「いいわ」
「……何だと?」寂の声が跳ね上がった。
幼い頃からずっと彼らの後を追いかけ、まるで心臓ごと差し出すように、彼らを大切にしてきた時雨が。その時雨が、今日に限って、こんなにもあっさり承諾した。
「お前、嫁がないつもりか?」
「ええ。もう嫁がない」
寂はその場で固まった。彼の腕の中にいた瑞希の体も、こわばった。
時雨は病床に仰向けになり、真っ白な天井を見つめていた。
胸の奥で動いているはずの心臓は、もうとっくに、この三人に何度も抉られて、空っぽになっていた。
無理やり血を抜かれたこと。犬小屋に閉じ込められたこと。そして今回の事故で、トラックの前に突き出されたこと。
いったい何度、命を差し出せば足りるというのだろう。
これからの人生は、ただ自分のために生きたい。
ようやく我に返った寂は、苛立たしげに髪をかき上げ、時雨の鼻先を指差した。「そういう芝居はやめろ! 俺に意地を張ってるだけだろ。じゃあ、徇兄さんと崇兄さんはどうなんだ?」
「お前、高熱でうなされていた時、二人の名前を呼びながら、嫁ぎたいって言ってたじゃないか。 今さら何をいい子ぶってるんだ」
「言ったでしょう。嫁がないって」
時雨は目を閉じた。もう、彼を視界に入れることさえ汚らわしかった。
この三人の頭の中には、瑞希のことしかない。誰が嫁いだところで、結局は都合のいい生贄にされるだけだ。
寂がさらに怒鳴ろうとした、その時。病室のドアが押し開けられた。
当直の看護師が治療用のトレーを手に入ってきて、眉をひそめた。 「何を騒いでるんですか!ここは重症病棟ですよ。騒ぎたいなら外でやってください!」
瑞希はすぐさま目を潤ませ、か弱い声を出した。「看護師さん……私も患者なんです。足がすごく痛くて……」
「足をひねっただけで患者ぶるんですか?」 看護師は呆れたように白い目を向けながら、手早く時雨の点滴を交換した。「その程度の擦り傷なら、とっくに退院できますよ。重症病棟の前に居座って、何をしているんですか」
それから、淡々と続けた。「脳外科は三階です。出口を出て左。どうぞお引き取りください」
瑞希は言葉に詰まり、顔を真っ赤にして、目に涙を溜めた。
寂の顔は見る見るうちに青ざめ、やがて怒りで強張った。彼は瑞希の手を引き、病室の外へ向かう。「いいだろう、水無瀬時雨。その気なら、一生そこで寝てろ」
「瑞希に土下座して謝るまで、俺たちが迎えに来ると思うな!」
半月後。
水無瀬家の車が、入院棟の下に停まっていた。
時雨の脚のギプスはまだ外れていない。彼女は車椅子に座り、長年水無瀬家に仕えている運転手、北村忠に押されて外へ向かった。
ロビーを出た途端、車のドアの前に立ちはだかる寂と瑞希の姿が目に入った。
瑞希は指先をもじもじと絡め、怯えたような顔でこちらを見た。「時雨さん、ごめんなさい……」
「寂さん、時雨さんも今日退院するって知らなかったみたいで。車の席が足りないから、先に私を送ってくれるって……」
寂は腕を組み、車椅子に座る時雨を見下ろした。その口調には、まるで施しでも与えるような傲慢さが滲んでいる。「少しは懲りただろう」 「水無瀬時雨。お前がいつ瑞希に頭を下げて謝るか。その時になったら、改めて迎えを寄越してやる」
時雨は、車椅子の肘掛けにそっと指を置いた。
三年前、胸を弾ませて帰国した。やっと家族と再会できると思っていた。けれど待っていたのは、自分の居場所がすっかり他人に奪われた水無瀬家だった。
本物の水無瀬家のお嬢様であるはずの時雨は、いつの間にか誰からも疎まれる悪女扱い。その一方で、使用人の娘である瑞希は、三人の御曹司に手のひらの上の姫のように大切にされている。
運転手の北村はそばに立ち、困り果てたように手を揉み合わせていた。
今日は命じられて、お嬢様である時雨を迎えに来た。それなのに、池田家の若様と新城のお嬢様が、どうしても車を使うと言い張っている。
以前の時雨なら、彼らの機嫌を取るために、自分から身を引いていた。車を譲り、ひとりでタクシーを拾って帰っていたはずだ。
北村が動かないのを見て、寂は苛立たしげに眉をひそめた。「何をぐずぐずしてる。早く車を出せ。 瑞希は帰って薬を飲まなきゃならないんだ」
北村はうつむき、小さな声で言った。「ですが……お嬢様がまだ……」
「あいつは勝手に待たせておけばいい!」寂は声を荒げた。 「水無瀬時雨、いつまでくだらない真似をするつもりだ? 瑞希まで巻き込んで、こんなところで日差しに晒す気か?」
時雨はゆっくりと目を上げた。寂の向こうに立つ北村へ視線を向けた。
「北村さん、車に乗せて」
北村は慌てて前に出て、車椅子を車のドアのそばまで押すと、慎重に時雨を後部座席に乗せ、体を支えた。
「お嬢様、出発してもよろしいですか? 」北村は彼女を落ち着かせると、運転席に戻ろうとした。
時雨は、すでに隣に座っている寂と瑞希へ目を向けた。
「待って」
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