
死亡フラグを物理で叩き割ったら、家族全員がホームレスになりました。
章 3
「待てだと? 水無瀬時雨、いい加減にしろよ! 」池田寂は声を荒げた。
時雨は革張りのシートに身を預けたまま、寂の後ろにいる新城瑞希へ視線を向けた。
瑞希は寂の服の裾をぎゅっと握り、彼の背に隠れるように小さく身を縮めている。
水無瀬家は、寂たち三人を引き取り、何一つ不自由のない暮らしを与えた。
海外へ留学させ、会社の株まで与えた。それもすべて、水無瀬家に残されたただ一人の血筋――時雨を、彼らに守ってもらうためだった。
それなのに今、三人は水無瀬家から与えられた資産を、ことごとく瑞希につぎ込んでいる。
ただの使用人の娘である瑞希に。
身の回りのものすべてが、水無瀬家の令嬢と同じ格式で整えられ、外出には運転手付きの車が用意される。それどころか、本物の令嬢である時雨が、彼女のために席を譲らされることさえある。
時雨は視線を戻し、寂を見た。「ええ。待つに決まってるでしょう」
寂は手をかざして瑞希を日差しから庇いながら、苛立たしげに言った。「お前を乗せてやっただけでも感謝しろ。 まだ文句があるのか?」
時雨は何も答えず、窓の操作ボタンを押した。 ガラスが音もなく上がり、窓枠にかけられていた寂の腕を挟んだ。 「っ……!」寂は痛みに顔を歪め、慌てて腕を引っ込めた。
時雨は淡々と言った。「まだ、降りていない人がいるでしょう」 それから運転席へ目を向けた。「北村さん。この二人を降ろして」
北村はすぐにシートベルトを外し、車を降りて後部座席へ回った。
そして寂の腕を掴むと、そのまま外へ引きずり出す。 不意を突かれた寂は数歩よろめき、そばの植え込みの柵に体をぶつけた。
瑞希が短い悲鳴を上げ、慌てて寂を支えようとする。けれど足元のハイヒールがぐらつき、そのまま地面にへたり込んだ。
北村はそれには目もくれず、反対側のドアを開けると、後部座席に置かれていた瑞希のブランドバッグを取り出した。
そして、それを彼女の足元へ放り投げた。ドアを閉め、素早く運転席へ戻った。
ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。エンジンが唸り、マフラーから青白い排ガスが勢いよく噴き出す。それは、ちょうど寂の顔にまともにかかった。
池田寂は手で煙を払いながら、何度か咳き込んだ。 遠ざかっていく車のテールランプを見つめ、悔しさに歯を食いしばった。
今日の時雨は、いったいどうしたというのだ。
いつもなら、彼が少し眉をひそめただけで、時雨は息を潜めるように大人しくなった。
それなのに今日は、運転手に命じて自分を車から引きずり降ろさせるなど。 まさか、こんな見え透いた駆け引きで、自分の気を引けるとでも思っているのか。
瑞希は足首をさすりながら、寂を見上げた。「寂さん……お姉さま、 私のこと怒ってますよね…… 」
寂は瑞希の赤く潤んだ目を見下ろし、腰をかがめて彼女を支え起こした。「怒るだって?あいつにそんな度胸あるもんか 」 彼は慰めるように言いながら、袖についた埃を払った。
「今はただ拗ねているだけだ。二、三日もすれば、自分から縋ってくる」そう言って、瑞希の手を引いた。
ここは山の中腹にある私立病院だ。タクシーなど、まず捕まらない。二人は麓まで歩いて下りる羽目になった。
しかも、水無瀬家の屋敷があるこの先の山腹の住宅地は、外部車両の乗り入れが禁じられている。つまり、麓に着いたところで、そこからさらに長い坂道を歩かなければならないということだった。
水無瀬邸。
時雨は玄関先で車椅子に座り、休んでいた。やがて視界の端に、 見るからに無残な二つの影が、ようやく坂道を上がってくるのが映った。
寂のシャツは汗で濡れ、背中にぴったりと張りついている。
瑞希はもっとひどかった。片手にはヒールの折れたハイヒールをぶら下げ、裸足で舗装道路の上を歩いている。一歩進むたびに、痛みで顔を歪めた。
「水無瀬時雨、お前には情けというものがないのか!」 玄関へ着くより先に、寂の非難めいた声が飛んできた。
彼は大股で階段を上がり、時雨の前に立ちはだかる。その体が、彼女の目の前に差していた陽光を遮った。
「情け? 」 時雨は顔を上げ、静かに彼を見た。「この車は水無瀬家のもの。私は水無瀬家の唯一の後継者」 淡々とした声で、彼女は続けた。「自分の家の車で家に帰るのに、誰に対して心を問われる必要があるの?」
寂は一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに瑞希を自分の前へ引き寄せると、擦りむけて血の滲んだ彼女の足先を指さした。「見ろ。瑞希はお前のせいで、こんなにひどい目に遭ったんだぞ。よくも平気な顔でここに座ってられるな」
「お前がコンペに出すつもりだったデザイン画を出せ。瑞希への埋め合わせとして渡すんだ」 「それさえすれば、今日のことは水に流してやる」
時雨は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになった。
「どうして私が渡さなきゃいけないの?」
寂の体が、ぴたりと固まった。
どうして。その一言を、時雨はこれまで一度も口にしたことがなかった。
寂の記憶の中の時雨は、彼が何かを欲しがれば、たとえどんなに大切なものでも、ためらわず差し出す女だった。
「それは……その……」
寂はしばらく言葉を探した末、ようやく絞り出すように言った。「お前が本気で俺たちのことを大事に思ってるなら、それくらい当然だろ」
時雨には、なぜ彼らがここまで瑞希に入れ込むのか、 その理由が痛いほど分かっていた。
七年前。三人が成人したばかりの頃、彼らは半年近くかけて、新城母娘の行方を捜し出した。
当時、時雨はまだ十五歳だった。兄たちが良いことをしているのだと信じて、彼女も甲斐甲斐しくあちこちへ走り、情報を集める手伝いをした。
新城和代は、寂たち三人が施設にいた頃の保育士だった。ある時、電気設備の故障で孤児院から火が出た。和代は炎の中へ飛び込み、三人を抱えて助け出したという。
その代償として、彼女の両手には今も消えない火傷の痕が残っている。その恩を、三人は十数年ものあいだ忘れなかった。そしてようやく新城母娘を見つけ出すと、彼女たちを水無瀬家へ迎え入れた。生活のすべてを水無瀬家の基準で面倒を見た。そのうえ、恩返しという責務まで、当然のように時雨一人に背負わせた。
確かに、 和代は彼らを救った。けれど、彼らを育て上げたのは水無瀬家だ。海外へ留学させ、贅沢な生活を与え、会社の株まで目の前に差し出したのも、水無瀬家だった。
時雨はずっと、彼らならその二つを分けて考えられると思っていた。
けれど今になって分かった。彼らは、まったく分かっていなかったのだ。
――いや。分かろうとしていないだけなのかもしれない。
「いやよ」
寂はその場に立ち尽くし、目の前の時雨を見つめた。まるで、見知らぬ女を見ているようだった。胸の奥で、名状しがたい苛立ちがますます膨れ上がっていく。
水無瀬時雨は、本当に変わってしまったらしい。
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