
血塗られた五周年と裏切りの夫
章 2
純紀は私の痛む腕を一瞥し, 軽く「ああ, 傷か」と言った. 彼の声には, まるでどうでもいいことのように響いた. 「自分で処置できるだろう? 君はそういうことに長けているからな」
私は一瞬, 息が止まるような感覚に陥った. 彼は私に, すべてを自分で解決することを求めている. 長年, 私が彼の妻として, 会社の広報部長として, 彼の抱えるあらゆる問題を解決してきたように. 私は彼の言葉に反論することなく, 静かにうなずいた. 私の心は, もう彼の言葉に動じないほど, 深く凍りついていた.
バスルームの鏡に映る自分の顔を見た. 左頬と右腕の傷は, 昨夜よりも鮮明に見えた. 絆創膏の下には, まだ血が滲んでいる. 私は静かに絆創膏を剥がし, 傷口を洗い流した. 冷たい水が傷口に触れるたび, ズキリとした痛みが走った. しかし, 私はその痛みを, まるで当然のことのように受け入れた.
傷の手当てを終え, 服を着替えていると, ふと腹部が目に入った. そこには, 数えきれないほどの注射痕が残っていた. 不妊治療の痕だ. 毎月, 毎月, 義母の静恵に言われるがまま, 私はクリニックに通い続けた. 純紀の跡継ぎを産むこと. それが, 私がこの柏木家に嫁いだ唯一の「価値」だと, 静恵は常々言っていた.
「蘭子さん, 今月も排卵日が近いわね. もう予約は入れたの? 」静恵の声が, 私の脳裏に蘇る. その声は, いつも私の心を締め付けた. 私は, 静恵の期待に応えようと, 必死だった.
私たちは, 数えきれないほどの不妊治療を経験してきた. 体外受精, 顕微授精. どんなに辛い治療も, 私は純紀のために, そして彼を愛するがゆえに耐え抜いてきた. しかし, 結果はいつも同じだった. 陰性. そのたびに, 私は自分の体は欠陥品なのではないかと, 深く絶望した.
ある日, 純紀が珍しく私の体調を気遣ったことがあった. その時, 私は胸が張り裂けそうな思いで, 彼に治療の辛さを打ち明けた. 彼は私の手を握り, 「ごめん, 蘭子. 辛い思いをさせているな」と優しい言葉をかけてくれた. その瞬間, 私は彼の愛を信じ, この苦労も報われると心から思った.
しかし, その温かい言葉は, 長くは続かなかった. その夜, 純紀が私に寄り添おうとした時, 彼のスマートフォンが鳴った. 画面に表示されたのは「泉実」という文字. 純紀は一瞬躊躇したが, すぐに電話に出た.
「泉実, どうしたんだ? 」純紀の声は, 私に話しかける時とはまるで違う, 甘く, 優しい声だった. 電話の向こうから, 泉実の甘ったるい声が聞こえてくる. 「純紀さん, あのね, 今日の撮影, すごく大変だったの. 私, もう疲れちゃった…」泉実の声は, まるで子供が親に甘えるかのように, 純紀の心を掴んでいた.
純紀は私の隣に座っていたにもかかわらず, まるで私など存在しないかのように, 泉実の言葉に耳を傾けた. そして, 私の目をまっすぐに見つめながら, 言った. 「泉実, 今から行くからな. 大丈夫だ, 俺がそばにいる」その言葉は, 私に向けられることは決してなかった.
純紀は立ち上がると, 急いで部屋を出て行こうとした. 「純紀さん, どこへ…」私は思わず声を上げた. しかし, 純紀は振り返ることなく, 玄関のドアを開けた. 「泉実の様子がおかしい. 今夜は帰れないかもしれない」
その言葉が, 私の心に深く突き刺さった. 私の体は, 鉛のように重くなった. 私はただ, 純紀の背中が遠ざかるのを, 呆然と見つめるしかなかった. 彼は, 私という存在を, 本当に愛しているのだろうか? この結婚は, 私にとって一体何なのだろうか? 自問自答を繰り返す夜は, いつも途方もなく長かった.
翌朝, 私は純紀の命令で起こされた. 彼の声は, 電話越しでも冷酷だった. 「蘭子, 今すぐ出社しろ. お前しかできない仕事がある」
私はまだ身体の傷が癒えていない上, 心も疲弊しきっていた. しかし, 純紀の命令は絶対だ. 私は急いで支度を始めた. 昨夜のパーティーで負った傷がまだ痛む. 着替えの際, 右腕の傷口が服に擦れ, 思わず顔を歪めた. ヒールを履こうとした時, 足首に違和感. 昨夜, ドローン落下時にバランスを崩した際に捻ったのかもしれない.
私は痛みを堪えながら, 玄関に向かった. 純紀の車が, すでにエントランスに停まっている. 私は車に乗り込むと, 助手席に泉実が座っているのが見えた. 泉実は, 私を一瞥すると, すぐに純紀に甘えた声で言った. 「純紀さん, 蘭子さん, 遅いね. もうちょっと早く来られないのかな? 」
純紀は, 私の存在を無視するように, 泉実の髪を優しく撫でた. 「泉実, 大丈夫だ. 少し待とう」泉実が後ろを指差した. 「蘭子さん, 後ろの席, 空いてるよ」
私は何も言わず, 後部座席に座った. 私の存在は, 最初から彼の視界には入っていなかったのだ. 純紀は, 泉実のために, 保温ジャーに入れたスープを用意していた. 彼は, 泉実の口元にスプーンを運び, 優しく食べさせている.
「美味しい? 泉実. 蘭子が丹精込めて作ったんだ」純紀は, 泉実の顔を覗き込みながら, 得意げに言った.
私は, 息を飲むような苦しさを感じた. それは私が, 純紀のために, 彼の健康のために, 毎朝早く起きて作ったスープだ. それが今, 泉実の口へと運ばれている. 私の存在は, ただ食材を調達し, 準備するだけの「道具」でしかなかったのだ.
泉実は, 私が差し出したスープを美味しそうに食べながら, 純紀の腕に体を寄せた. 私は, 後部座席でただ, その光景を眺めていた. 私の心は, 完全に空っぽになっていた. この男は, 私を本当に愛してなどいない. 彼は, 私をただの便利な存在として, 彼の人生の一部として扱っているに過ぎない.
目的地に着くと, 純紀は泉実を抱きかかえるようにして車から降りた. 私はまだ, 後部座席に座ったままだった. 純紀はちらりと私を見て, 「蘭子, 少しここで待っていてくれ」と言い残し, 泉実と共に建物の中へと消えていった.
私は一人, 車の中に残された. 窓の外では, 太陽が眩しく輝いていた. しかし, 私の心の中は, 深い闇に覆われていた. 私の身体は, 痛みに蝕まれ, 私の心は, 絶望に打ちひしがれていた. 私はもう, 純紀に何も期待しない. 何も求めない. 私はただ, この場所から, この関係から, 逃げ出したかった.
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