
血塗られた五周年と裏切りの夫
章 3
車内に一人取り残された私は, 窓の外の光景をぼんやりと眺めていた. 純紀と泉実が消えた建物は, 柏木リゾートの別館だ. 私は, この別館の広報戦略も担当していた. しかし, 今の私には, そのすべてが遠い世界のことのように感じられた. 車のドアはロックされ, 窓も固く閉ざされている. まるで, 私がこの車内に閉じ込められているかのように.
時間が経つにつれ, 車内の空気は重く, 息苦しくなっていった. 私の体は, まだ完全に回復していない. 左頬の傷, 右腕の痛み, そして足首の捻挫. これらの痛みが, 密閉された空間でさらに増幅されるようだった. 私は浅い呼吸を繰り返したが, 酸素が足りないような感覚に陥った. 視界がかすみ, 頭がくらくらする. 私は, 意識が遠のいていくような感覚に襲われた.
その時, 突然, 車のドアが勢いよく開いた. 冷たい外気が, 私の顔を撫でるように吹き込んできた. 私は大きく息を吸い込み, 途切れていた意識を必死で繋ぎ止めた. 目の前には, 純紀と泉実が立っていた. 彼らの顔からは, 楽しげな雰囲気が漂っていた.
「蘭子, 待たせて悪かったな」純紀はそう言ったが, その声には何の悪気も感じられなかった. 泉実は, 純紀の腕にぶら下がるようにして, 私をちらりと見た. 彼女の手には, 私がさっきまで後部座席で見ていた, 保温ジャーが握られていた.
泉実は, 純紀の口元にスプーンを運び, 残りのスープを食べさせている. 「純紀さん, 本当に美味しいね, このスープ. 蘭子さん, 料理上手だもんね」泉実は, 私に聞こえるように, わざとらしくそう言った.
純紀は泉実の言葉に満足げに頷き, 「ああ, 蘭子はそういうところは優秀だからな」と私を見下ろすように言った. 私の心臓は, またしても凍りついた. 彼は, 私をただの料理人としてしか見ていない. 私の努力も, 愛情も, 彼にとっては「便利」な才能でしかなかったのだ.
車は再び走り出した. 目的地は, ホテル本館のエントランスだった. 純紀は車が停まると, 私の方に振り返った. 彼の視線は, 冷たく, そして命令的だった. 「蘭子, ここから先は, 君は入らない方がいい」
私は彼の言葉に, 何も反応できなかった. 純紀は続けた. 「君の顔の傷, まだ完全に治っていないだろう. こんな姿で本館のエントランスに立つのは, ホテルのイメージに良くない. 客に不安を与える」彼はそう言って, 私の顔を指差した. 「今日, 本館では海外のVIPを招いた重要なレセプションがある. 君は別館の非常口から入って, エレベーターで直接, 広報部のあるフロアに向かってくれ」
彼の言葉は, 私を公の場から排除する命令だった. それは, 私を柏木リゾートの人間ではないと, 妻ではないと, 宣言しているかのようだった. 純紀は, 私という存在が, 彼にとって, 柏木リゾートにとって, 邪魔でしかないのだと, はっきりと私に伝えた.
私は一言も発することなく, 車から降りた. 純紀は, 泉実を抱きかかえるようにして, ホテルの正面玄関へと向かっていった. 私は, 彼らの背中が見えなくなるまで, ただじっと立っていた.
私が向かうべきは, 別館の非常口. そこから入り, エレベーターで広報部に直行しろ, と純紀は言った. しかし, 別館のエレベーターは, 特定のセキュリティカードがなければ, 広報部のあるフロアには停止しない. そして, そのカードは, 私の手元にはない. 私のカードは, 数ヶ月前に「セキュリティ強化のため」という名目で回収され, 新しいカードは泉実に渡されていた. 泉実には, 私の広報部での業務のすべてが引き継がれていたのだ.
「泉実には, 私の仕事のすべてを教え込んでくれ. 君は優秀だからな」純紀は以前, そう私に言った. 私は彼の言葉を信じ, 泉実に広報部での業務のすべてを教え込んだ. 契約交渉のノウハウ, 危機管理マニュアル, 国内外のVIPリスト…私の持つすべての知識と経験を, 惜しみなく彼女に伝授した. しかし, 彼女は私の知識を吸収するどころか, ただそれを「自分の手柄」として純紀に報告するだけだった.
私は別館の非常口の前に立った. 重い鉄製のドアを開け, 薄暗い階段を上り始めた. 一歩, また一歩. 私の足首の痛みは, 階段を上るたびに増していく. ヒールの踵が, 階段の石段にカツン, カツンと響く. その音は, 私の心臓の鼓動と重なり, 私をさらに苦しめた.
「蘭子, 大丈夫? 」不意に, 背後から優しい声が聞こえた. 私は振り返った. そこに立っていたのは, 広報部の若手社員, 田中だった. 彼は心配そうに私の顔を見つめている.
「田中くん…どうしてここに? 」
田中は, 私の腕の傷と, 顔の傷に目を向けた. 「蘭子さんの怪我, 大丈夫ですか? 純紀社長から, 蘭子さんは今日, 別館の非常口から入るように言われたと聞きました. でも, 蘭子さんのセキュリティカードが使えないことを知っていたので…」彼はそう言って, 自分のセキュリティカードを差し出した. 「これを使ってください. 僕が広報部のフロアまでご案内します」
私は田中の優しさに, 思わず涙が出そうになった. しかし, 私は感情を押し殺し, 彼のカードを受け取った. 「ありがとう, 田中くん. 助かるわ」
田中はエレベーターのボタンを押し, 広報部のあるフロアへと向かうエレベーターに私を案内してくれた. エレベーターが目的のフロアに着くと, 私は田中にお礼を言い, 一人で広報部のオフィスへと向かった.
オフィスに入ると, すでに数人の社員が慌ただしく動いていた. 彼らは私の顔を見ると, 驚いた表情を浮かべた. その中の一人が, 私に駆け寄ってきた. 「蘭子部長! 一体どうされたんですか, その怪我…」
私は彼らの心配そうな顔を見て, 胸が締め付けられるような思いがした. 私は彼らに, 純紀の「客が動揺するから裏口から帰れ」という言葉を伝えることはできなかった. 私はただ, 笑顔を作り, 「大丈夫よ. 少し転んだだけだから」と答えた.
その時, オフィスのドアが開いた. そこに立っていたのは, 純紀と泉実だった. 泉実は, 純紀の腕に寄り添い, 満面の笑みを浮かべていた. 彼女は, 私を見るなり, わざとらしく目を見開いた. 「あら, 蘭子さん! もう出社していたのね! 顔の傷, 大丈夫? でも, 今日のレセプションは, 私が純紀さんと一緒に頑張るから, 蘭子さんはゆっくり休んでてね! 」
泉実の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 彼女は, 私が今日のレセプションの準備にどれほどの労力を費やしたかを知っているはずだ. しかし, 彼女は, 私の努力のすべてを, 自分の手柄として横取りしようとしている. そして, 純紀は, その光景をただ黙って見ているだけだった.
「泉実, 今日のレセプションでは, 君がメインだ. 蘭子は裏方に回って, サポートに徹してくれ」純紀は, 私にそう言った. 彼の声は, 冷たく, そして命令的だった. 彼は, 私という存在を, もはや彼の妻としてではなく, ただの「裏方」としてしか見ていない. 私の心は, 完全に砕け散った.
私は, 何も言わずに純紀と泉実の背中を見つめていた. 彼らは, まるで新婚夫婦のように, 楽しそうにレセプション会場へと向かっていった. 私は, その場に立ち尽くし, 私の心に残された, 最後の希望の光が消えていくのを感じていた.
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