
捨てられ女のガチャ婚相手は、極上胸筋の(偽)貧乏人でした。
章 3
沙耶香は、思わず入口のほうを振り向いた。
逆光の中から現れた男は、広い肩に引き締まった腰をしていた。その顔立ちは、まるでこの世で最も優れた彫刻家が丹念に彫り上げたかのように整っていた。
彼は険しい表情のまま、大股でこちらへ歩いてきた。
弁護士は柊真の姿を見た瞬間、明らかに狼狽した。
顔を隠すようにしてこそこそと逃げ出す。だが去り際、沙耶香の足を思いきり引っかけることだけは忘れなかった。
「っ……!」沙耶香は体勢を崩し、そのまま前へ倒れ込んだ。
柊真は普段、決して女性に手を貸さない。自分の体質を人前で知られるわけにはいかなかったからだ。
それなのに――なぜかその瞬間、目の前の少女を支えずにはいられなかった。
支えた直後、柊真はすぐに後悔した。
だが、おかしい。彼女に触れたというのに、顔が熱くなることも、息苦しくなることも、全身に蕁麻疹が出ることもなかった。
柊真は呆然と、自分の手を見下ろした。たった今、沙耶香に触れたその手を。
――なぜだ。なぜ、目の前の彼女には拒絶反応が出ない?
柊真は、きっとアレルギー反応が遅れているだけだ、と自分に言い聞かせた。
それから改めて、目の前の彼女を見た。美しい顔立ちをしている。どこかで見たような気もした。
沙耶香はぱっと明るい笑みを浮かべ、自分から手を差し出した。「はじめまして。伊藤沙耶香です」
まさか、二十年以上ずっと不運続きだったのは、この一度の抽選に運を全部取っておくためだったなんて。
目の前の男は、体格も、容姿も、纏う空気までもが、どれを取っても人並み外れていた。
彩音がわざわざ弁護士まで送り込んで脅してきた理由が、ようやく分かった。
こんな極上の男、誰だって手放したくないに決まっている。
先ほど弁護士が言っていた、目の前の男と彩音の家柄が釣り合う、という話。
沙耶香はまったく信じていなかった。
本当にそうなら、彩音の両親があらゆる手を使って娘の願いを叶えようとするはずだし、そもそもこの男が抽選リストに入っているわけがない。
沙耶香は、彼の服装にちらりと目を向けた。シンプルなデザインの服で、どこにもブランドロゴは見当たらない。そのせいで彼女はますます確信した。この人も自分と同じ、普通の家庭で育った人なのだと。ただ、見た目が飛び抜けているだけなのだと。
差し出された沙耶香の手を見て、柊真は一瞬、動きを止めた。
さっき、彼女とはかなり近い距離で触れ合った。それなのに、体には何の異変も起きなかった。
まさか、彼女こそ、自分の病を癒やすために天が遣わした『薬』なのか。
柊真は試すように、彼女の手を握った。
温かい。そして、柔らかい。
しかも、彼女の体からは、かすかに陽だまりと石けんを思わせるような香りがした。ひどく心地いい香りだった。
しばらく握ってから、柊真はようやく手を離した。
やはり、彼女に触れることに拒絶反応はない。蕁麻疹も出ない。息が詰まることもない。吐き気もない。
柊真は胸の奥に湧き上がる喜びを、必死に押し殺した。
ここへ来る前、彼は彼女にそれなりの補償金を渡し、今回の抽選を辞退させるつもりでいた。
だが今、はっきり分かった。彼女こそ、自分の運命の相手だ。
「婚姻届の提出窓口はどこだ?」柊真が尋ねた。
背後に控えていた秘書は、目を見開いた。
先ほど社長があの女性に触れた瞬間、秘書は内心で「まずい」と思っていた。指はすでに、いつでも救急車を呼べるよう、スマホの「119」の発信ボタンにかかっていたほどだ。
それなのに、社長の体には何の反応も起きなかった。
しかも今、社長のほうから結婚手続きをすると言い出したのだ。
秘書は、目玉が飛び出しそうになるほど驚いていた。
超がつくほどの美形が、本当に自分と婚姻届を出すつもりなのだと分かり、沙耶香は一気に前のめりになった。「こっちです!」
二人はすぐに手続きを終え、市役所を出た。
柊真は車のそばに立ち、沙耶香を見下ろした。「学校まで送ろうか。それとも……?」
沙耶香は、柊真の車をちらりと見た。控えめで、質素。どこにでも走っているタクシーと、大差ないように見えた。
沙耶香は車に詳しいわけではない。だが、いい車かそうでないかくらいは分かる。
今しがた結婚したばかりの夫は、服装もごく普通。車もごく普通。
しかもその車は、近くに停まっている十数台の車と一緒に並んでいた。どう見ても、タクシーの車列だ。
つまり、結論はひとつ。彼女の夫は、タクシードライバーなのだ。
沙耶香は知っている。タクシードライバーは、収入自体は悪くないこともある。けれど、安定しているとは言いがたい。
必死に働いて、一日に十数時間ハンドルを握れば、その月は二十万円近く稼げるかもしれない。だが翌月には、四、五万円前後に落ちることだってある。
それでも沙耶香は、まったく問題だとは思わなかった。
柊真は、これほどまでに顔がいいのだ。少しくらい欠点があっても、許されて当然ではないか。
沙耶香にとっては、むしろ好都合だった。顔のいい男が貧しいからこそ、自分にもチャンスが回ってきたのだから。
沙耶香は、仕事が不安定そうな柊真を安心させてあげようと決めた。
「あなた、安心して。婚姻届を出したから、私、すぐ正社員になれるの。これからは創源テクノロジーの正式な社員だよ。月給は十二万円で、毎年お給料も上がるんだから!」
「これからは、私があなたを養うね。 私が食べられるなら、あなたにもちゃんと分ける。二人で、カップ麺に卵を入れられるくらいの暮らしを目指そう」
そう言ってから、沙耶香は少しうつむいた。もしかして今の言い方、柊真のプライドを傷つけたかもしれない。
そう思い、慌てて言葉を足した。「えっと、つまりね。これからうちは、私が土台を支えるから、あなたはもっと上を目指してくれればいいの。私たちのいい暮らしは、これからだよ!」
柊真の表情が、たちまち何とも言えないものになった。妙で、複雑で、どこか理解に苦しんでいるような顔。
これまで何年もの間、数えきれないほどの女たちが、彼の顔と財産を目当てに近づいてきた。
だが目の前の新妻は、たしかに彼の顔を見て嬉しそうにはしているものの、いわゆる目がくらんでいるような様子はない。
何より重要なのは――。どうやら彼女は、自分のことを「女に養われる必要がある貧乏な男」だと思い込んでいるらしい。
柊真は、振り返って秘書を一瞥した。秘書もまた、何とも言えない妙な顔をしていた。
「君が、俺を養う?」柊真は尋ねた。「どうして?」 その表情には、もの珍しさが浮かんでいた。さらに、理由の分からない小さな喜びまで滲んでいる。
女に「養ってあげる」と言われたのは、これが初めてだった。
沙耶香は困ったように、柊真の服と、そのそばに停まっている車をちらりと見た。
「別に、深い意味はないよ。ただ、これから二人でちゃんと暮らしていこうってこと。 あ、そうだ。あなたが借りてる部屋ってどこ?私、卒業したら学校の寮にいられなくなるの」
もう結婚したのだ。二人は正式な夫婦なのだから、沙耶香も変に遠慮するつもりはなかった。
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