
捨てられ女のガチャ婚相手は、極上胸筋の(偽)貧乏人でした。
章 2
だが沙耶香は信じなかった。カップ麺を食べる割り箸すらないような自分に、そんな都合のいい運命が転がり込んでくるはずがない。
どうせ、同姓同名の別人だろう――そう思うことにした。
その頃、Z国最大のテクノロジー企業・星テクノロジーでは、社長藤原柊真の秘書が青ざめた顔でスマートフォンを握りしめ、社長室の扉を叩いていた。
「入れ」 低く、感情の読めない声が返った。
「社長……あの……さっき、婚姻マッチングの抽選で……社長が、ある女性に引き当てられてしまいまして……!」
秘書はおそるおそる言った。言葉がところどころ詰まった。
柊真が女嫌いであることは、社内では誰もが知っている。普段から、彼の一メートル以内に近づいた女性は、例外なく異動か退職に追い込まれてきた。
それなのに――今年も確かに、独身税はきちんと納めていた。本来なら、抽選対象から外れているはずだった。
(システムの不具合か……?)
柊真の険しい表情を見て、秘書は慌てて言った。「社長、すぐに先方へ連絡して対処します。きっとシステムの手違いです。今ならまだ間に合います!」
スマートフォンを操作しようとした、その瞬間。画面にトレンドが飛び込んできた。
【衝撃】極度の女性嫌いで知られる新興財閥の若きトップ・藤原柊真、一般女性に結婚相手として“当選”される!
秘書は息を呑み、身動きが取れなくなった。
柊真は険しい顔のまま、低く言った。「まずは、様子を見に行く」
ここ最近、柊真は一族から縁談を押しつけられ、息が詰まりそうになっていた。ついに業を煮やした彼は、身の程をわきまえない連中への牽制として、自らの名前を抽選プールに入れたのだ。
独身税さえ納めていれば、選ばれることはない。そう思っていた。
だが、まさか本当に女に引き当てられるとは。
幼い頃の事故が原因で、彼には奇妙な体質がついてまわるようになった。女性が近づくと、呼吸が乱れ、息苦しくなり、全身に蕁麻疹が出るのだ。
いまだに解決策は見つかっていない。
この件は、社内でもごく一部しか知らない極秘事項だった。万が一外部に漏れれば、成長期にある会社の株価は一気に暴落しかねない。
そのため柊真は、対外的には「極度の女嫌い」と公言していた。加えて、彼に近づいた女性がことごとく辞めさせられてきたこともあり、その噂はますます広まっていった。
だが、起きてしまったものは仕方がない。抽選結果を取り消すにも莫大な代償が必要で、下手をすれば会社の評判にも傷がつく。
柊真は、自ら市役所へ行って確認することにした。どうしても避けられないなら、相手と話し合い、形だけの契約結婚に持ち込むしかない。
秘書は顔をこわばらせながらも、覚悟を決めて頷いた。
やがて、一見すると控えめで、どれもまったく同じに見える黒塗りの高級車が十数台、道路を疾走していった。しかしその実、すべて特別改造が施され、防弾性能まで備えた、市場に出回ることのない代物ばかりだった。
一方、沙耶香は市役所の待合室で待ちくたびれていた。
そのとき、扉が開いた。
沙耶香の目がぱっと輝いた。ついに、これから夫になる男が現れたのだと思った。
ところが、入ってきたのは、ハゲた中年男だった。
沙耶香はがっかりすると同時に、ギョッとした。
まさか、未来の夫って、まだ二十二歳なのにこの見た目……?
男は厳しい顔で、冷たく名乗った。「伊藤さん、はじめまして。私は、あなたが抽選で引き当てたお相手――藤原柊真さんの婚約者、神谷彩音さんから依頼を受けた弁護士です」
「神谷さんはおっしゃっています。あなたが身の程をわきまえ、自ら藤原さんとの婚姻抽選の結果を辞退するのであれば、違約金の二千万円を肩代わりし、さらに慰謝料として二千万円をお支払いすると」
沙耶香は思ってもみなかった。適当に抽選で引いた男をめぐって、まさかドラマでよく見る「お金をあげるから、うちの息子から離れてちょうだい」みたいな展開になるとは。
彼女は思わず突っ込んだ。「その神谷さんって人が、本当に私の未来の夫の婚約者なら、どうして彼の名前が抽選システムに残ってるんですか? それに、神谷さんがお金を出せるくらいの人なら、お相手だってお金持ちなんですよね?お金持ちなのに独身税も払えなくて、抽選システムに載って、私みたいな一般人に引き当てられるなんてこと、あります?」
沙耶香は首を振り、苦笑した。あの彩音という女性は、恋にのぼせすぎて、冷静さを失っているのだろう。
そもそも、この制度が本当に“いいもの”だったら、整理券を取るだけでも大行列、裏口を使ってでも申し込みたい人であふれているはずだ。
それを、わざわざ強制する必要などない。
「私は冗談を言っているのではありません。あなたが引き当てたのは、あの藤原柊真さんです。 彼と神谷さんは家柄も才能も釣り合っている。あなたの入る隙間などどこにもありません」
「忠告しておきます。あなたのような一般家庭の女性が、藤原家に嫁げるなどと思わないことです。早いうちに諦めなさい。いくら払えば、抽選取り消しに応じるんですか?」
弁護士の口調は、次第に高圧的になっていった。
沙耶香も、そこで一気に腹が立った。「藤原さんがそんなにこの結婚を嫌がっているなら、ご本人が取り消しを申し出ればいいじゃないですか。どうして私がやらなきゃいけないんですか?」
抽選取り消しの申請には、重い代償が伴う。それをすれば、沙耶香は卒業証書を受け取れなくなり、就職先を見つけることもできなくなる。
あの神谷という女性は、たった二千万円で自分の未来を買い取ろうとしているのだ。冗談じゃない。
他人の都合で、自分の人生を棒に振るほど、沙耶香は馬鹿ではなかった。
「あなた……!」
弁護士は怒りで顔を赤くした。もし彩音がこの件を柊真本人に持ち込めるのなら、そもそも自分がここで仲介する必要などない。
「神谷さんがどなたか、ご存じないのですか? 国際的な賞まで受賞し、国に名誉をもたらしたピアニストですよ!あなたのような平凡な女性が、神谷さんと張り合えるとでも?」
沙耶香の胸の奥に、不快なものが広がった。
弁護士は彼女の表情が曇ったのを見て、勝ち誇ったように一枚の写真を取り出し、沙耶香の前に置いた。 「ご覧なさい。こちらが神谷さんです」
写真の中の女性を見た瞬間、沙耶香の表情がすっと冷えた。
――知っている。
十五歳のとき、沙耶香の前にある夫婦が現れた。自分たちが彼女の実の両親だと言った。
彼らはこうも言った。家にはすでに、あなたより百倍も優秀な姉がいる、と。
沙耶香が返事をするより先に、その夫婦は彼女を脅した。姉から何一つ奪ってはいけない。姉を傷つけるようなことは絶対に許さない、と。
沙耶香が神谷家に戻ることを許されたのは、神谷家の血を引く者を外に置いたままでは体裁が悪い、ただそれだけの理由だった。
そのとき、沙耶香は写真を見せられていた。そこに写っていた少女は――今、弁護士が差し出した写真の女性と、まったく同じ顔をしていた。
「ご実家の経済状況は、あまりよろしくないそうですね。神谷さんがひと言おっしゃれば、あなたの養父母など職を失うことに――」
「やってみなさいよ!」
「彼女にそんな真似をさせるものか」
男と女、二つの声が同時に響いた。
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