
裏切られた妻の覚醒:天才研究者の華麗なる復讐
章 2
静は回廊を渡り、前廳へと向かった。弔問客の波に紛れ込む。
喪服の裾を整える。周囲の親族たちが偽りの言葉で挨拶を交わしていた。静は硬い笑みを浮かべたまま、小さく頷いて応じる。
廊下の向こうから暁が現れた。スーツには一点の乱れもない。静の視線が、彼のネクタイにできた微かな皺を捉えた瞬間、再び胃がせり上がってくるような感覚に襲われた。
暁は静の隣に来ると、ごく自然に彼女の腰を抱いた。布越しに伝わる手のひらの温度に、静の全身の筋肉が瞬時に強張る。
「美晴の手を」
そう口実にし、静は暁の腕から滑るように抜け出した。暁の手が、宙で一瞬だけ留まる。
そこへ大奥様の鷹司千代が歩み寄ってきた。威厳のある視線が二人を射抜く。静は従順に頭を垂れ、瞳の奥の嫌悪を隠した。
「暁。可哀想な絢子さんを、あなたがしっかり支えてあげなさい」
千代が念を押すように言った。暁は重々しく頷く。静は袖の中で、掌に爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
法事が終わり、静は美晴の手を引いて玄関先に停められた黒塗りのセンチュリーに向かった。運転手が恭しく後部座席のドアを開ける。
静はまず娘を車に乗せ、自分も乗り込む。できる限りドアに近い位置に身を寄せた。
すぐに暁が隣に座る。ドアが閉められ、密閉された空間に彼の纏う香水の匂いが充満した。
静の鼻腔が、その匂いに混じる微かな山茶花の香りを敏感に捉えた。絢子が愛用している香りだ。息が詰まり、咄嗟に顔を窓の外へ向ける。
車は滑らかに走り出した。暁が静に視線を向け、その冷たい態度に気づいて僅かに眉を顰めた。
彼は静が膝の上に置いていた手に、自身の手を重ねようと伸ばしてきた。指先が彼女の手の甲に触れた瞬間、静は電気に打たれたように激しく手を引いた。その動きはあまりに大きく、静の体は窓ガラスに鈍い音を立ててぶつかった。暁の眼差しが、瞬時に冷え切ったものに変わる。
「何を狂った真似だ」
上位者の不快感を隠そうともしない低い声。静の心臓は恐怖と怒りで激しく鼓動した。
「すみません。少し疲れて、眩暈が…」
静はかろうじて笑みを作り、疲労を言い訳にしてその場を取り繕った。
暁は冷たく鼻を鳴らし、それ以上は追及しなかった。代わりにタブレットを取り出し、仕事に取り掛かる。その横顔が、静には見たこともない他人のように感じられた。
車内は静まり返り、娘の穏やかな寝息だけが聞こえる。窓の外を流れていく夜景を見つめながら、静の瞳に涙が滲んだ。
自宅に戻ると、静はすぐに美晴を抱いて子供部屋へ駆け込んだ。暁を遠く背後に置き去りにする。その足音の速さが、彼女の混乱を物語っていた。
娘を寝かしつけた後、主寝室のバスルームに逃げ込む。ドアに鍵をかけた瞬間、彼女はドアに凭れたまま床に滑り落ちた。
シャワーの温度を最高に設定する。熱湯が体を打ち、暁に触れられた痕跡を洗い流そうとするかのように。
湯気で曇る鏡に映る自分の青白い顔を見つめる。その瞳は絶望から、やがて氷のような決意へと変わっていった。
体を拭き、肌を完全に覆い隠す長袖のパジャマに着替える。深く息を吸い込み、バスルームのドアを開けた。
暁はベッドのヘッドボードに寄りかかって本を読んでいた。物音に気づき、彼女に視線を向ける。その目は、彼女の保守的な寝間着の上を一瞬だけ滑った。
静は彼の視線を避け、ベッドの反対側に回り込んで横になった。彼に背を向け、石のように体を硬くする。
暁は本を置き、メインライトを消した。そして、布団に入ると、長い腕を伸ばして背後から静を抱きしめた。
別の女の匂いが再び鼻をつく。静の胃が痙攣し、彼女は彼の腕を激しく振りほどいて体を起こした。
「いい加減にしろ」
暁は完全に忍耐を失い、体を起こして冷たく警告した。空気中に火薬の匂いが立ち込める。
「胃が痛くて、あなたに移したくないから」
静は歯を食いしばり、そう言い訳をした。枕を抱え、リビングのソファへと向かう。
暁は彼女の決然とした後ろ姿を睨みつけ、苛立たしげに眉間を揉んだ。引き留める声はかけず、代わりに乱暴にベッドへ体を倒した。
暗いリビングのソファに横たわりながら、寝室から聞こえる穏やかな寝息を聞く。静は、この結婚に対する最後の幻想を、完全に断ち切った。
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