
裏切られた妻の覚醒:天才研究者の華麗なる復讐
章 3
静は朝の光の中で身を起こし、ソファの上のブランケットを丁寧に畳んだ。そして、キッチンへと向かう。
手際よく卵を焼く。フライパンから跳ねた油が手の甲を刺し、ちりちりとした痛みが走った。しかし、彼女は無表情に鍋を見つめ続ける。
身支度を整えた暁がダイニングに入ってきた。ソファの上のブランケットに一瞥をくれる。眉間に皺が寄ったが、何も言わなかった。
静が朝食を運ぶ。二人はテーブルの両端に座った。ナイフとフォークが皿に当たる音だけが、静寂の中でやけに大きく響いた。
「今夜は本邸で家の用事がある、帰らない」
暁はブラックコーヒーを一口飲み、事務的に告げた。
静はフォークを握る手の関節が白くなる。俯いて、瞳の奥の嘲りを隠した。そして、静かに「わかりました」とだけ答えた。
暁が出て行った後、静は優しい笑顔を浮かべて娘を起こし、幼稚園の制服を着せた。
私立幼稚園の門まで車で送る。娘が元気に走り去っていく後ろ姿を見送ると、静の顔から笑みが消えた。
誰もいない家に帰り着くと、言いようのない虚無感に襲われた。彼女は書斎に入り、内側から鍵をかけた。
金庫を開け、婚前に書き溜めた伝統医学と生物創薬の研究ノートを取り出す。紙はわずかに黄ばんでいた。
そこにびっしりと書き込まれた実験データに指を滑らせる。この結婚のために捨てた誇りを思い出し、目の奥が熱くなった。
夜が訪れる。静は一人でソファに座り、壁の時計を眺めていた。針は深夜十時を指している。
娘の明日の健康診断の書類に、暁の署名が必要なことを思い出した。携帯電話を手に取り、彼のプライベート番号に電話をかける。
長いコール音の後、ようやく電話が繋がった。静が口を開こうとした瞬間、受話器の向こうから甘くか細い声が聞こえた。
『……どなた?』
絢子の含み笑いの声だった。静の心臓が、冷たい手で握り潰されたように縮こまる。
静は携帯電話を強く握りしめた。爪が掌に食い込む。平静を装い、暁に代わるよう要求した。
絢子は軽く笑った。背景から水音が聞こえ、誰かと尋ねる暁のくぐもった声がした。挑発以外の何物でもない。
『暁お兄様、奥様からよ』
絢子はわざとらしく背景に向かって呼びかけた。そして、一方的に電話を切る。無機質な通話終了音が、静の鼓膜を突き刺した。
静の手から力が抜け、携帯電話がカーペットの上に落ちた。画面の微かな光が、彼女の血の気のない顔を照らし出す。
胃が激しく痙攣する。トイレに駆け込み、便器に向かってえずいた。しかし、何も吐き出すことはできない。
冷たい水で何度も顔を洗う。水滴が顎を伝って落ちていく。鏡の中に映っていたのは、哀れな怨婦の姿だった。
静は鏡を強く殴りつけた。鏡は割れず、反動で手の骨が痛む。その痛みが、彼女を完全に覚醒させた。
書斎に戻り、再び研究ノートを開く。その眼差しは、剃刀のように鋭くなっていた。
パソコンを立ち上げ、幾重にもかけられたパスワードを解除し、鷹司ホールディングスの内部データベースにログインする。指がキーボードの上を高速で踊った。
絢子が現在担当している生物創薬プロジェクトの資料を呼び出す。見栄えは良いが中身のないデータを、一目十行で読み進めていく。
静は、トップレベルの専門家としての直感で、そのプロジェクトが抱える二つの致命的な基礎理論の誤りを即座に見つけ出した。彼女の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
その欠陥データをUSBメモリにコピーし、暗号化をかける。USBを引き抜き、強く握りしめた。
子供部屋へ行き、眠っている娘の顔を見つめる。こんな偽りに満ちた家庭で、この子を育てさせるわけにはいかないと、心に誓った。
主寝室に戻り、暁の私物をすべて段ボール箱に放り込む。その動作は乱暴で、決然としていた。
半分空になったクローゼットを見つめ、長く息を吐き出す。まるで、古い繭を破るような解放感があった。
静は書斎の机に向かい、一枚の白い紙を取り出した。
その上に、力強い筆圧で「離婚訴訟」「財産分与」の文字を書き記した。
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