
婚約破棄から始まる、最高峰の溺愛
章 3
沙織は、人目もはばからず寄り添う二人の姿を冷ややかに眺め、小さく鼻で笑った。「自分が卑しい真似をしてるって、自覚はあるのね」
男の鋭い視線が突き刺さった。
「本当に君にはがっかりだ。彼女は君の姉さんだぞ。危険な状態からやっと抜け出したばかりなのに、わざわざそんなふうに刺激する必要があるのか?」
「姉さん?」沙織は軽く笑ったが、その瞳は冷え切っていた。「妹の婚約者と寝る姉さんのこと?」
「お前!」海斗は言葉に詰まり、宮沢雪乃を支えながら宮沢家の方へ歩き出した。沙織の横を通り過ぎた瞬間、ふいに足を止め、冷えた声で言い放った。「入り口で待ってろ」
彼はいつもの命令口調だった。そして、沙織が当然のように従うと信じ切っている態度でもあった。
だが次の瞬間、目の前を赤い影が横切った。
沙織はクラッチバッグを提げ、片手で収まりそうな細い腰を揺らしながら、黒いラムスキンの靴音を響かせた。その姿は艶やかな赤い狐のように、不羈だった。
「私の家よ。あんたに指図される理由はないだろう」
海斗はその場に立ち尽くし、遠ざかる背中を見つめて我を忘れた。
なんだか、沙織が変わってしまったような気がした。
「海斗さん」
横から甘く柔らかい声が聞こえ、彼の思考は引き戻された。
「あの人は昔からああいう性格なの。気にしないで。後でちゃんと言っておくから、もうあなたを怒らせたりしないわ。まずは部屋に戻って休もう」
雪乃は目を赤くし、彼の腕を掴んで動こうとしない。
「海斗さん……そばにいてくれるって、約束したでしょう?」
泣き出しそうな深い情愛に、海斗の心が揺れた。
「もちろんだ。君は僕が好きすぎて思い詰めてしまったんだから。怪我が治るまで、ずっとそばにいるよ」
沙織が二階へ上がり、シャワーを浴びて着替えを済ませた頃、ようやく海斗と雪乃が入ってきた。
家の玄関先まで来て浮気現場を見せつけるとは。バルコニーから見ていて吐き気がした。
「キスはもう十分?」
沙織は黒のレザーソファに身を沈め、細長い脚を気だるげに組む。その姿は、警戒心むき出しの野良猫のようだった。
言葉が終わるや否や、階上から怒鳴り声が響いた。
「また何をでたらめなことを!ますます礼儀を知らなくなったな!」
宮沢健一の四角ばった顔には、不機嫌さがありありと浮かんでいる。彼の後ろから降りてきたのは小林美和、健一の元妻だ。
今や主の座を乗っ取り、世間からは名実ともに宮沢夫人となっている。
全身を宝飾品で飾り立てても、顔に滲む意地の悪さは隠しきれない。ただし、善人を装う演技力に関しては、雪乃以上だった。
沙織は言い争うのも面倒で、スマホを数回操作した。次の瞬間、玄関の防犯カメラ映像が、リビングの大型液晶テレビに映し出される。
画面の中では、男女が固く抱き合い、我を忘れて貪るように口づけている。口元には唾液の糸さえ見えた。
「沙織ちゃん、何するのよ!」 雪乃は顔を覆い、人に見られるのが恥ずかしいとばかりに悲鳴を上げ、二階へと駆け上がっていく。その間も、しくしくという泣き声が聞こえていた。
まるで浮気現場を押さえられたのではなく、とんでもない被害を受けたかのような振る舞いだった。
「雪乃、もう馬鹿な真似はしないでちょうだい!」 美和は慌てて後を追いかけつつ、わざとらしい焦り声を上げた。雪乃は病人なのだから刺激してはいけないと、誰かさんに思い出させるためだ。
案の定、健一は怒りに任せてテレビの電源コードを乱暴に引き抜いた。
「宮沢沙織、家をここまで掻き乱さないと気が済まないのか!」
「私が騒ぎを起こしているの?それとも宮沢雪乃が起こしてるの?」
沙織は、かつて自分を愛してくれた父親を冷ややかに見つめた。心は氷のように冷え切っている。
母が亡くなってから初めて思い知ったのだ。大切にしていた家族の絆など、一瞬で跡形もなく崩れ去るものなのだと。
まるまる16年だ。母は心血を注いで支えてきたのに、初七日すら明けないうちに、この男は元妻とその娘を家に迎え入れた。
どうしてこれほど非情になれるのか。
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