
愛されない妻の覚醒:天才華道家は二度と泣かない
章 2
「もしもし、悠真?」
非常階段の冷たい壁に背を預け、桜子は震える声で電話に出た。
『ママ?パパの誕生日パーティー、まだ始まらないの?僕、お腹すいた』
息子の不機嫌な声が、スマートフォンのスピーカーから響く。桜子の胸が、罪悪感で締め付けられた。
「ごめんね、悠真。すぐに帰るから。先に夕飯を食べていてくれる?」
『……ちぇ。わかったよ』
一方的に切られた通話音を聞きながら、桜子はゆっくりと立ち上がった。膝の痛みが、現実を突きつけてくる。
タクシーを拾い、世田谷区にある鷹司家の本邸へと向かった。車窓から流れる東京の夜景が、やけに冷たく感じられた。
重厚な門をくぐり、静まり返った本邸の長い廊下を抜ける。使用人たちは皆、桜子に気づかないふりをして、足早に通り過ぎていく。この家で、彼女は常に孤独だった。
夫婦の寝室である、重厚なマホガニーの扉を力なく押し開けた。
部屋の空気は、まるで氷室のように冷たかった。桜子はコートを脱ぎながら、ソファの上に無造作に投げ出された暁の特注スーツを見つけた。ホテルで着ていた、あのスーツだ。
無意識に、妻としての習慣でスーツを片付けようと手を伸ばす。上質な生地に指が触れた、その瞬間。
スーツを持ち上げた途端、濃厚なカサブランカの香水の匂いが、桜子の鼻腔を突き刺した。
動きが、完全に停止した。
それは、先ほどホテルで結衣から漂っていたのと、全く同じ匂いだった。暁が彼女を抱きしめた時、彼のスーツに染み付いたのだ。脳裏に、あの密会の映像が鮮明にフラッシュバックする。
極度の精神的ストレスが、物理的な痛みに変わった。
桜子の胃が、突然、燃えるように痙攣した。
「うっ……!」
スーツを取り落とし、激しい痛みに耐えかねてベッドの縁に崩れ落ちる。冷や汗が、額を伝った。
サイドテーブルの引き出しを漁り、常備している胃薬の瓶を震える手で掴んだ。しかし、指先から力が抜け、ガラス瓶が床に落ちて粉々に砕け散った。白い錠剤が、絨毯の上に無残に散らばる。
「あ……ぁ……」
桜子は床に這いつくばり、薬を拾おうとする。だが、痛みの第二波が押し寄せ、うずくまることしかできない。
その時、背後のドアが静かに開いた。
パジャマ姿の息子、悠真が不機嫌そうな顔で立っていた。
「悠真……助けて……」
桜子は助けを求めて手を伸ばし、かすれた声で息子の名前を呼んだ。
悠真は、床に落ちた暁のスーツと、這いつくばる母親を見て、怯えたように一歩後退りした。そして、顔を歪めて泣きそうな声で叫んだ。
「ママ、またどうしたの!怖いじゃん!」
混乱と恐怖からくる拒絶の言葉が、桜子の胸に突き刺さる。胃の痛みよりも激しい痛みが、心臓を貫いた。
「結衣おばさんは、いつもニコニコしてるのに!」
悠真はそう泣き叫び、桜子に決定的な打撃を与えた。
悠真はパニックに陥ったようにドアをバタンと乱暴に閉めて、自分の部屋へ逃げ帰ってしまった。
閉ざされたドアを見つめ、桜子は悟った。夫だけでなく、たった一人の息子まで、自分は奪われてしまったのだ。
絶望の淵に、突き落深刻された。
胃の痙攣が悪化し、呼吸が苦しくなる。意識が、ゆっくりと遠のいていく。
床に散らばった薬の上に倒れ込み、彼女の頬を冷たい涙が伝い落ちた。
深夜の巡回をしていた家政婦頭の木村が、部屋の異音に気づき、恐る恐るドアを開けた。
「奥様っ!」
木村の悲鳴が、静まり返った屋敷中に響き渡った。
「救急車を!早く!」
木村が慌てて電話をかける声が、桜子の薄れゆく意識の中で遠くに聞こえる。執事が暁に連絡を取ろうとしているが、「社長は、お電話に出られません」と報告する声も。
彼は今頃、結衣と共にいるのだろう。自分の生死など、気にも留めずに。
桜子の唇に、自嘲的な笑みが浮かんだ。
救急隊員が到着し、ストレッチャーに乗せられる際の揺れで、彼女は完全に意識を失った。
救急車のサイレンが、夜の高級住宅街に虚しく鳴り響き、鷹司家の冷たさを際立たせていた。
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