
愛されない妻の覚醒:天才華道家は二度と泣かない
章 3
目に刺さるような白い蛍光灯の光に、桜子は顔をしかめた。鼻をつく消毒液の匂いで、自分が病院にいることを悟る。
体を起こそうとした瞬間、左腕に繋がれた点滴の針が皮膚を引っ張り、鋭い痛みに小さく息を呑んだ。
「井上桜子さん。目を覚ましましたか」
担当医の山田と名乗る男が、カルテを見ながら冷淡に告げた。
「極度のストレスによる、急性胃潰瘍です。しばらく入院が必要ですよ」
桜子は無意識に病室を見回した。夫の姿を探すが、そこにいたのは付き添いの家政婦、木村だけだった。孤独を、静かに噛み締める。
その時、病室の重いドアが乱暴に開かれた。
「ママ!」
息子の悠真が、足音を立てて駆け込んできた。
桜子の青白い顔に、無理やり安堵の笑みが浮かんだ。心配して、来てくれたんだ。
「悠真……」
しかし、悠真はベッドに近づかず、数歩離れた場所で立ち止まった。そして、敵意に満ちた目で、母親を睨みつけた。
「パパと離婚してよ」
甲高い声が、無菌の病室に突き刺さる。桜子の笑顔が、完全に凍りついた。
「……どうして、そんなことを言うの?」
自分の耳を疑い、震える声で尋ねた。
「ママはいつも暗い顔をしてるし、僕に勉強ばっかりさせるから嫌いだ!」
容赦ない非難の言葉。息子の将来を思っての行動が、すべて裏目に出ていた。桜子は胸を押さえた。胃が、また痛み始める。
悠真はさらに続けた。
「結衣おばさんは、僕とゲームをしてくれるし、いつも笑ってるんだ!」
桜子は、結衣が自分の不在を狙って、巧みに息子を手なずけていた事実に気づいた。怒りと悲しみで、唇を強く噛む。
「悠真、おいで……」
桜子は点滴の管を引きずりながらベッドから身を乗り出し、悠真の手を握ろうと手を伸ばした。
しかし、悠真は汚いものを見るように、その手を乱暴に払い除けた。
桜子の手は、力なく空を切り、冷たいシーツの上に落ちた。
「結衣おばさんが、鷹司家の新しいママになればいいんだ」
残酷な、無邪気な願望。
その言葉は、目に見えない刃となって桜子の心臓を貫いた。呼吸を忘れ、目から大粒の涙が溢れ出す。
しかし、悠真は母親の悲痛な涙を見ても、一切の同情を示さなかった。
「泣く女は面倒くさい」
そう吐き捨てた。それは、暁が普段、桜子に向けている言葉と全く同じだった。夫の呪いが、息子にまで伝染している。
「悠真坊ちゃま……」
見かねた木村が窘めようとするが、悠真は「使用人は黙ってろ」と傲慢に言い放った。
桜子は、自分が育てた息子が、ここまで歪んでしまったことに、母親としての完全な敗北を感じた。
悠真は言いたいことだけを言うと、一度も振り返ることなく病室を飛び出していった。
開け放たれたドアの向こうの廊下は静まり返り、桜子の嗚咽だけが、純白の病室に響き渡った。
心電図モニターの心拍数が、異常な数値を叩き出している。まるで、心が壊れていく音のようだった。
自分の居場所は、この世界のどこにもない。
薄れゆく意識の中で、桜子はそれを確信した。
病室の窓の外で、冷たい雨が降り始めた。ガラスを打ち付ける雨音が、桜子の涙と呼応している。
鎮静剤が効き始める直前、廊下の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてくるのが聞こえた。
暁の、重く、冷たい足音。
そして、それに寄り添う、結衣の甘ったるい声も。
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