
十年間の愛と犠牲の果てに
章 2
桜田莉穂 POV:
電話が繋がったのは, その日の夕方だった.
私の知らない番号からだ.
「もしもし」
出ると, 聞き覚えのある甘ったるい声がした.
小沼結乃だった.
「莉穂さん, ごめんなさい. 海斗さん, 私がパニック発作を起こしちゃったから, どうしても離れられなくて…」
彼女の声は震えていた.
でも, その震えの中に, 微かな高揚感が混じっているように感じた.
私の被害妄想だろうか.
「大丈夫よ」
私は, 自分でも驚くほど冷静に答えた.
もう, 感情の揺らぎさえ感じない.
「海斗さん, 本当に心配してくれて…私, こんなに愛されてるんだなって…」
彼女の言葉は, 私への遠回しの挑発だった.
私の心臓が, まるでガラスのように, ひび割れていくのが分かった.
「あのね, 莉穂さん. 私たち, いつかきっと, ちゃんと話せる時が来るから. その時は, 海斗さんも交えて, 仲直りしましょうね」
いつか.
その「いつか」は, きっと永遠に来ない.
私は, その言葉に何も返さなかった.
ただ, 彼女の背後から聞こえる, 高そうなスパの心地よい音楽と, 海斗の笑い声に耳を澄ませた.
ああ, やはり.
パニック発作, ね.
「莉穂, お前, 何を言ってるんだ? そんなに怒ってんのか? 」
突如, 海斗の声が電話口に響いた.
結乃から電話を奪ったのだろう.
彼は, 私が結乃の言葉に傷ついていることを知ってか知らずか, 私を責める言葉を続けた.
「お前は本当に優しいから, 結乃の言葉にまた傷ついたんだろ. お前は少し, 純粋すぎるんだよ」
彼の言葉は, 私を褒めているようで, 実は私を子供扱いしているようだった.
そして, 彼の言葉は続いた.
「結乃は本当に体が弱いんだ. お前みたいに丈夫じゃない」
彼の「お前みたいに丈夫じゃない」という言葉が, 私の耳に刺さった.
私は, 彼が以前, 私の体調が悪い時に言った言葉を思い出す.
「少し休めば治るだろ. 大袈裟だな」
あの時の彼は, 私に冷たかったのに.
結乃には, こんなにも優しい.
「今日の契約のことだけど, また後日, 改めて設定するから. 落ち着いてくれ」
彼はそう言って, 私がまだ怒っていると決めつけていた.
私が本当に怒っているのは, 契約が延期になったことじゃない.
彼が, 私に対して嘘をつき, 私を蔑ろにしたことだ.
もう, 彼の意図がはっきりと理解できた.
彼は, 私を軽んじ, 結乃を選んだのだ.
これは, 彼の間違いではない.
彼の選択だ.
そして, 私には, その選択を受け入れる準備ができている.
私は, 彼の言葉に何も返さなかった.
ただ, 静かに, 通話を終了するボタンを押した.
「莉穂? おい, 莉穂! 」
彼は, 私が冷静であることに驚いたのだろうか.
再び電話をかけてきた.
彼の声は, 先ほどよりも柔らかくなっていた.
「本当にごめん. 俺が悪かった. でも, お前も分かってるだろ, 俺にはお前が必要なんだ」
彼はそう言って, また, 私を甘い言葉で釣ろうとした.
私は, 黙って電話を切った.
視線を上げた先にあるのは, リビングと寝室を隔てる, すりガラスの引き戸だった.
まるで, 私たちの関係そのもののように, お互いの存在は感じられるのに, はっきりと見通すことはできない.
私は, 左手の薬指にはめていた, 彼との記念の指輪に目を落とす.
もう, この指輪は必要ない.
私は, 指輪をそっと引き抜き, 台所のゴミ箱に, 音もなく捨てた.
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