
捨てられた妻の逆襲:後悔してももう遅い
章 3
翌日、広志が再び病室に現れたとき、私はベッドに座って本を膝に置いていた。
「凛、昨日は悪かったよ」
彼は花束を抱えていた。
安っぽい、店先で適当に買ったような罪滅ぼしだ。
私は本を閉じ、ゆっくりとサイドテーブルに置いた。
「座って」
私の声の冷たさに彼は躊躇したが、やがて椅子に腰を下ろした。
その絶妙なタイミングで、ドアが開いた。パリッとしたスーツを着た男性が入ってくる。
私が呼んだ弁護士だ。
「誰だ?」広志が怪訝そうに眉をひそめた。
弁護士は無言で、一枚の書類を広志の前に置いた。
離婚届。
その文字が目に入った瞬間、広志の目は本気で驚いたように見開かれた。
「は? なんだこれ」
「見た通りのものよ」私は平坦な声で言った。「私と離婚して」
「バカなこと言うな!」彼は急に立ち上がり、書類を払いのけようとした。「喧嘩したからって離婚はないだろ。頭おかしくなったのか?」
私は冷静に、用意していた封筒に手を伸ばした。興信所が集めた写真を並べ、最後に昨日詩織がわざと置いていった証拠品――イヤリングを提示した。
「柳詩織との不貞行為。証拠はすべて揃ってるわ」
広志の顔から一瞬で血の気が引き、土気色になった。
「こ、これは……誤解だ! 彼女はただのビジネスパートナーで……」
「嘘はやめて。昨日の夜、彼女がここに来たわ」
「な……詩織がここに?」
彼の狼狽ぶりは滑稽なほどだった。
「全部聞いたわ」私は容赦なく続けた。「あなたが私のことを『便利な道具』だと言っていたこともね」
「違う! それは――あいつが話を捻じ曲げてるんだ! 俺はそんなつもりじゃ!」
広志は私の手を掴もうとしたが、私は冷徹な正確さでその手を払い除けた。
「選択肢は二つよ。今すぐこの書類にサインして離婚するか、それともこの証拠を週刊誌に持ち込んで、あなたのクライアントすべてに暴露するか」
広志は息を呑み、喉を詰まらせた。
パニックと恐怖が彼の顔でせめぎ合っていた。
「凛、頼む。冷静になってくれ。今スキャンダルが出たら、俺は終わりだ。やっと自分の手で成功を掴んだところなんだぞ」
「それが私に何の関係があるの?」
「全部お前のためだったんだ! お前を幸せにするために!」
「私を幸せにする?」私は乾いた、嘲るような笑い声を漏らした。「他の女と寝ることが?」
私は彼の目を死んだように見つめた。
「あなたは私のためにやったんじゃない。自分のためにやったのよ。あなたは自分以外、誰も愛したことなんてない」
広志は糸が切れたように椅子に崩れ落ちた。
「ただ……頼むから公表だけはしないでくれ」
「なら、サインして」
私はペンをテーブルの上で彼の方へ転がした。
広志は震える手でペンを握った。
彼の頭の中で天秤が揺れているのが見えた――プライドと、保身への執着。
結局、彼は自分自身を選んだ。
屈辱に歪んだ顔で、彼は離婚届に自分の名前を書き殴った。
「これでお前の望み通りだろ……」
彼はペンを投げ捨て、私を睨みつけた。
「後悔するぞ、凛。お前一人で生きていけると思ってるのか?」
「ええ、できるわ」私は答えた。「実際、あなたといる時よりもずっと清々しく生きていけるはずよ」
私が目配せすると、弁護士が書類を回収した。
「出て行って。二度と私の前に現れないで」
広志は何か言いかけたが、言葉を飲み込み、火事場から逃げるように部屋を飛び出していった。
閉まるドアの音と共に、私の10年のロマンスは終わりを告げた。
胸に空虚な感覚があった。
しかし、その空洞を吹き抜けるのは、奇妙なほど爽やかな風だった。
「さようなら、南広志」
私は窓の外の青空に向かって、そう囁いた。
広志 視点
俺は勝ったはずだった。
凛という足枷を外し、柳詩織というトロフィーを手に入れた。
目障りだった司湊斗(つかさ みなと)を蹴落とし、顧問弁護士の座を奪い取った。
すべては順風満帆だった。
あの日までは。
俺たちは高級ホテルの宴会場にいた。政財界の大物が集まる会場で、俺は詩織のエスコート役として立っていた。
「詩織、あそこにIT企業の社長がいる。挨拶に行こう」
俺が声をかけると、彼女はシャンパングラスを回しながら、心底退屈そうに俺を一瞥した。
「一人で行ってくれば? 私、ちょっと疲れたわ」
最近の彼女はずっとこうだった。俺が離婚してからというもの、彼女の態度は目に見えて冷淡になっていた。
俺は一人で会場を回り、しばらくして彼女を探した。
テラスの陰で、彼女が年配の男と親密そうに話しているのを見つけた。
有名な不動産王だ。
近づこうとした俺の足を、彼女の言葉が床に凍りつかせた。
「……ええ、そうなんです。今の彼氏? ただの遊びですよ」
詩織の鈴を転がすような笑い声が、不快に鼓膜を揺らす。
「弁護士って言っても、所詮は雇われですしね。退屈で死にそう」
俺の体から血の気が引いていく。
「そろそろ新しいパトロンを見つけようと思ってたんです。『本物』の力を持った人を。あなたみたいな」
俺は震える足で踏み出した。
「詩織……どういうことだ?」
彼女は罪悪感のかけらもない顔で俺を見た。それどころか、会話にハエが紛れ込んだかのように眉をひそめた。
「あら、聞いてたの? まあ、ちょうどよかったわ」
不動産王の腕に手を絡めたまま、彼女は冷たく死んだ目で俺を見下ろした。
「広志、あなたの役目は終わったのよ。司を潰すのには役に立ったけど、それ以外に価値なんてないもの」
「役目が終わった……? 俺は君のために離婚までしたんだぞ!」
「頼んでないわよ。あなたが勝手に盛り上がってやっただけでしょ?」
周囲の視線が集まる中、彼女は残酷なとどめを刺した。
「本当に使えない男ね。凛があなたを捨てた理由が分かるわ」
俺の頭の中で何かが切れた。
拳を握りしめたが、振り上げる前に警備員に取り押さえられ、会場から引きずり出された。
屈辱。
怒り。
そして、底なしの喪失感。
俺は駐車場の冷たいコンクリートの上で詩織を待ち伏せた。彼女が現れた瞬間、俺は叫んだ。
「後悔させてやる!」
詩織は鼻で笑った。
「何ができるの? あなたに何が残ってるっていうの?」
「証拠ならある」
俺はポケットからボイスレコーダーを取り出した。そこには、彼女が司湊斗を陥れるために行った違法な工作の数々が録音されていた。
保険として記録しておいたものだ。
詩織の顔から血の気が失せるのが見えた。
「これを公開すれば、君も終わりだ」
「やめて! お願い、広志!」
彼女の悲鳴を無視して、俺はその場でデータをゴシップサイトにアップロードした。
『アップロード完了』の通知が出た瞬間、胸に激痛が走った。
心臓を万力で潰されるような感覚。
俺はその場に崩れ落ちた。
意識が遠のく中、見えたのは泣き叫ぶ詩織の姿でも、夜空の星でもなかった。
優しく微笑む凛の幻影だった。
病院のベッドで目覚めたとき、俺のスマホは詩織の破滅を報じるニュース通知で埋め尽くされていた。
だが、達成感はなかった。
震える指で、俺はスマホに入っていた詩織の写真をすべて削除した。
残ったのは、抜け殻のような男だけ。
窓の外では、幸せそうな家族連れが歩いていた。
凛と築くはずだった未来。
「俺は……バカだ……」
乾いた唇から、自嘲の言葉がこぼれ落ちた。
凛 視点
空港のロビーは旅行者たちの喧騒で満ちていた。私は小さなスーツケースを引きずり、搭乗ゲートへと向かっていた。
日本を離れる。海外のアートスクールで、ゼロからやり直すのだ。
母も、友人も、そして最近知り合った建築デザイナーの池井誠(いけい まこと)さんも、私の背中を押してくれた。
「凛さん、いってらっしゃい」
誠さんは優しい笑顔で手を振り、見送ってくれた。
離婚の傷に苦しんでいた時、彼は何も聞かず、ただ私が作ったお菓子を美味しいと言って食べてくれた。
彼の誠実さが、私の凍った心をゆっくりと溶かしてくれたのだ。
「ありがとうございます、誠さん。向こうでも頑張ります」
ゲートに向かおうとしたその時、それは起きた。
「凛!」
聞き覚えのある、しかし酷く枯れた声。
振り向くと、そこには変わり果てた広志が立っていた。
無精髭。皺だらけのシャツ。
自信に満ちたエリート弁護士の面影はどこにもない。
彼は人混みをかき分け、私の前に立ちふさがった。
「行かないでくれ……頼む、行かないでくれ」
広志は私の手を掴もうとした。
私は反射的に彼を振り払った。
「触らないで」
「凛、俺が悪かった。全部俺の間違いだったんだ。詩織とは終わった。俺にはお前しかいないんだ!」
彼は空港の床に膝をつき、なりふり構わず懇願した。
「やり直そう。お前がいないと、俺はダメなんだ……」
周囲の乗客たちが驚いてこちらを見ている。
昔の私なら、こんな彼の姿を見て心が揺らいだかもしれない。
でも今は、哀れみしか感じなかった。
「広志」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「あなたが愛しているのは私じゃない。私に依存していた頃の自分自身を愛しているだけよ」
「違う! 俺は凛を!」
「いいえ。あなたは私がいないと不便なだけ。私が支えていたから、あなたは輝けていただけなの」
私は冷たく彼を見下ろした。
「もうあなたの母親代わりはできない。私は私の人生を生きるわ」
「凛……!」
広志が再び手を伸ばした時、空港の警備員が彼を取り押さえた。
「お客様、迷惑です!」
「離せ! 俺の妻なんだ! 行かせるな!」
暴れる彼を無視して、私は背を向けた。
「さようなら、広志。お元気で」
それは心からの決別の言葉だった。
一度も振り返ることなく、私はゲートをくぐった。
飛行機が離陸し、小さくなっていく東京の街を見下ろす。
座席のモニターにはニュースが流れていた。
『南広志弁護士、体調不良により活動休止を発表』
画面の中の彼は、虚ろな目でカメラを見つめていた。
『妻はいつまでも僕を支えてくれると信じています』
それは過去のインタビュー映像だった。
なんて滑稽で、虚しい響きだろう。
私はモニターを消し、窓の外に広がる青空を見つめた。
嘘つきは、もう隣にはいない。
これからは、自分のために生きる。
飛行機は雲を突き抜け、眩しいほどの光の中へと真っ直ぐに飛び立った。
それが、私の新しい人生の幕開けだった。
おすすめの作品





