
触れられない身代わり彼女
章 3
桔依の整った顔が強張り、笑顔が凍りついた。
翔太は、彼女の瞳の奥をかすめた失望の光を見逃さなかった。
それでも彼は、冷たく言い放った。「悪いが、何度も言っている。俺は潔癖症だ」
桔依はすがるように訴えかけた。「でも、あなた……私……」
今の彼女は極度の欲求不満により心身のバランスを崩しており、どうしても男の手を借りて発散する必要があった。
もう、限界だった。
「情けだと思って……苦しいの……お願い……」
彼女は下唇を噛み、潤んだ瞳で愛らしく儚げに彼を見つめた。
呼吸さえも荒くなっていた。
本当に、切実に欲しかった。
頭の中は、そのことでいっぱいだった。
全く抑えがきかない。
翔太は眉を強く顰めた。
自分の前でいつも発情したようにすり寄ってくる彼女の姿に、嫌悪感を抱いていた。
彼は冷酷に言い放った。「そんなに発情して疼くなら、自分で処理しろ」
その冷淡で軽蔑に満ちた言葉は、桔依の心の最も脆い部分を容赦なくえぐった。
だが翔太は、彼女の傷ついた表情など意に介さなかった。
そして、冷ややかに釘を刺した。「二度と、そんな格好で俺の前に現れるな」
桔依の潤んだ瞳から、スッと光が消えた。
胸の奥で、ズキズキとした痛みが波紋のように広がっていく。
夫はやはり、自分に触れようとはしない。
「……分かったわ」
彼女はうつむき、力なく答えた。
その声は、ひどく虚ろだった。
「それから、今日から俺と同じ部屋で寝るのはやめてくれ」 翔太は嫌悪のこもった視線を向け、冷酷に告げた。
桔依は顔を上げ、驚愕の表情を浮かべた。
「え?」
それはつまり、家庭内別居ということだろうか。
「俺は隣の部屋で寝る。これからは、俺の許可なく勝手に部屋に入るな」
それだけ言い残し、翔太はベッドを降り、一切の未練もなく寝室を出て行った。
残された桔依は、呆然と立ち尽くす。
瞳にじわじわと涙が滲んでくる。
翔太と結婚して1年。
長すぎるレス生活と、氷のような夫の態度のせいで、 彼女はすっかり心身のバランスを崩していた。
だが、夫である翔太は彼女の欲求を満たそうとするどころか、こんな時に別室にすると言い出したのだ。
桔依にとって、それはまさに泣きっ面に蜂だった。
翔太が去った後、ほんの少し温もりを取り戻しかけていた寝室は、再び凍りつくように冷え切ってしまった。
しかし、桔依の体内でくすぶる熱は、少しも引く気配がない。
むしろ、激しく燃え上がりつつあった。
翔太の冷淡な態度が、彼女を深く傷つけた。
そのストレスが、再び発作を引き起こしたのだ。
桔依は今、全身が異常なほど疼いて仕方なかった。
猛烈な欲求不満が全身を駆け巡る。
「うぅ……苦しい……欲しい……」
頬が熱く火照る。彼女の脳裏には、今日診察室のベッドで、あの男性医師にされたことが、無意識のうちにフラッシュバックしていた。
(なんてこと!)
桔依は慌てて首を振った。
(なんで、あの医者のことを思い出してるの?)
(私にはれっきとした夫がいるのに。それなのに、 それなのに、気づけば他の男にいけない想像を巡らせてしまうなんて……)
(だらしなくなったの?)
(でも、翔太は私に指一本触れようとしない)
今の彼女にとって、夫はいないも同然だった。
桔依の頭に、再びあの男性医師の姿が抑えきれずに浮かび上がる。
特に今日、病院の入り口で、彼に車に乗るよう促された時のこと。
彼女は、彼のマスクの下の素顔を見てしまったのだ。
本当に、息を呑むほどイケメンだった。
翔太よりも、ずっと。
(もし、彼とヤれたら……)
桔依は慌てて邪念を振り払った。
いくら翔太が触れてくれないからといって、他の男を欲求の捌け口にするなんてダメだ。
そんなの、精神的な不倫と変わらない。
だが、桔依の理性はもう限界だった。
震える手でベッドサイドの引き出しを開け、中から「それ」を取り出す。
結婚してからのこの1年、翔太に拒絶され、発作が起きるたびに。
彼女はいつも翔太のことを思い浮かべながら、自分で処理してきた。
しかし今夜は、少し違っていた。
脳裏に浮かぶのは、翔太ではなく。
あの、男性医師の姿だったのだ……。
……
やがて、桔依は激しい波からようやく解放された。
口元には、微かな涎の跡すら残っている。
全身の力が抜け、ぐったりとしていた。
荒い息を吐きながら、彼女はこれではダメだと痛感していた。
桔依は急いでベッドから這い出し、バッグを開けて、今日病院で処方された薬を取り出した。
寝室のポットには、もうお湯が残っていない。
彼女は適当な上着を羽織り、薬を飲むための水を取りに、1階のキッチンへと向かった。
隣の部屋――夫である翔太の寝室の前を通りかかった時、ふと、中から男の押し殺したような怪しげな声が聞こえてきた。
桔依はもう、何も知らないウブな少女ではない。
そのくぐもった声が何を意味しているかなど、嫌でも分かっていた。
彼女はとっさに、少しだけ開いたドアの隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い部屋で、翔太がベッドの端に腰掛け、1枚の写真に向かって――。
彼は喉仏を上下に動かし、掠れた声で何度も絶え間なく呟いていた。「莉子、俺の妻……お前だけだ……お前だけを愛してる……」
ドクン――。
桔依の頭の中で、何かが爆発するような音がした。
信じられないといった様子で目を見開いた。
(莉子?)
(本妻の娘?)
中島家の正真正銘の令嬢、中島莉子。
彼女の父、中島健一は正室の他に、愛人を持ち、そこに彼女が生まれた。
正妻である阿保雅子との間に生まれたのが、娘の莉子。
愛人である油谷優子との間には、一男一女が生まれた。
息子の中島涼太は、中島家唯一の男児であったため、生まれてすぐに正妻の雅子の養子に出された。
誰からも愛されなかった末娘の彼女だけが、実母である優子の元で育ったのだ。
だが、幼い頃から母親の優子にも冷遇されていた。
優子は彼女よりも、手放した息子の涼太や、正妻の娘である莉子を可愛がっていた。
桔依の結婚についても、優子は全く関心を示さなかった。
父親と正妻の雅子に丸投げだった。
だが、翔太と結婚する前、桔依自身もこっそり素行調査を行い、「翔太は中島家の令嬢を好いている」という確証を得てから嫁いだのだ。
あの時の彼女は、翔太が好きなのは「自分」のことだと思い込んでいた。
今思えば、ひどい勘違いだった。
翔太の心にいるのは、実は異母姉の莉子だったのだ。
翔太は私生児という身分ゆえに莉子には不釣り合いで、妥協して彼女を選んだに過ぎなかった。
だが、結婚後、翔太は極度の“潔癖症”を理由に、彼女に指一本触れようとしなかった。
桔依はそれを真に受けていたのだ。
今この瞬間になってようやく、自分の甘さに気づいた。
翔太は自分で処理してでも、彼女には絶対に触れたくなかったのだ。
(そう——彼は、姉の莉子に操を立てていたのである)
幼い頃から、中島家の人間はみんな莉子のことが大好きだった。
父親は彼女を蝶よ花よと溺愛した。
正妻も後妻も、彼女を宝物のように扱った。
いつだって、中島家で邪魔者扱いされるのは桔依だけだった
父親も、本妻の雅子も、実母の優子でさえも、誰も彼女を愛してくれなかった!
結婚すれば、新しい人生をやり直せると思っていたのに。
まさか、夫の翔太が想いを寄せているのも姉の莉子だったなんて。
桔依は、とてつもない皮肉を感じた。
今、夫が姉の莉子の名前を何度も呼ぶ声を聞いていると、 まるで容赦なく何度も平手打ちを食らわされているような気分だった。
呆然とする中、結婚前に翔太が何度も中島家を訪れていた光景が蘇る。
あの頃の彼は、穏やかで辛抱強く、絵に描いたような好青年だった。
来るたびに、彼女にプレゼントを買ってきてくれた。
だからこそ、桔依も彼に強く惹かれたのだ。
しかし今思えば、彼が中島家に来ていた目的は、彼女のためなんかじゃなかった。
全ては、姉の莉子のためだったのだ。
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