
冷徹パイロットは契約妻を逃がさない
章 2
メッセージを送ってからかなりの時間が経ち、凪佳がマンションのエントランスに着いても、まだ返信は来ていなかった。
彼女は心の中で自嘲した。
高嶺颯真は若くしてその名を知られた天才的な機長だ。三年前に自分が拒んだ相手。きっととっくにブロックされているに違いない。
車窓の外で大粒の雨が落ち始め、凪佳は小さく息をつき、傘を開いて車を降りた。
アパートに戻る途中、三番目の兄・柏木優斗から電話がかかってきた。
『凪佳、お前の退職届、俺が削除した。 お前は自分勝手すぎる。悠真兄さんは留学の学費がいるし、崇史兄さんも起業資金が必要だ。 桐谷社長がいなくなったら、全員路頭に迷うんだぞ!』
昨夜、散々な別れ方をしたあと、凪佳は退職メールを送っていた。それが優斗に見つかってしまったらしい。
凪佳は説明するしかなかった。「優斗兄さん……桐谷社長の想い人が帰国したの。二人、もうすぐ結婚するって』 声が震える。だが、口調は異様なほどきっぱりとしていた。『私……不倫の相手にはなりたくない』
『凪ちゃん、これもお前のためを思ってのことだ 学歴もない、背景もない、三年も桐谷社長に囲われてたんだ。もう高くは売れないぞ』 優斗の語調は穏やかだったが、一言一言が凪佳の胸に鋭く突き刺さった。
『売るって……何言ってるの!』凪佳は目を見開いた。
『女なんてそんなもんだろ。若くて、きれいなうちに金づるをつかまえろ。 兄ちゃんの言うこと聞け。桐谷社長についていけ。 甘えるな』
電話はそれきり切れた。
暗くなった画面を見つめ、凪佳は皮肉な笑みを漏らした。
蓮司から離れられないのは、好きだから。それだけじゃない。吸血鬼みたいな家族のせいだ。
あまりにも苦しい日々だったから、蓮司がくれるわずかな甘さにすら、簡単に落ちてしまった。 たとえ、その甘みに、毒が混ざっていたとしても。
「宮沢凪佳?やっぱりお前か、このあばずれが!」
怒声が飛んできた。
凪佳が呆気にとられて振り返ると、落ちぶれてはいるが凶悪な顔があった。実の父親、柏木正雄だ!
父は借金に、ギャンブルに、酒に溺れ、トラブルを続けていた。兄妹四人は皆、彼に関わりたくない厄介者として避けていた。
まさか自分が最初に見つかるとは思いもしなかった。
慌てて逃げようとしたが、正雄は持っていた酒瓶を放り投げ、よろめきながら追いかけてきた。そして、彼女の腕を乱暴に掴む。「金はどこだ! 金をよこせ、このやろう!」
「離して!お金なんてないわ!」
凪佳は必死に抵抗したが、正雄に髪を掴まれた。「逃げるつもりか? お前を助けようとして母親は車に轢かれて死んだんだ!この疫病神が。お前は俺から妻を奪ったんだ、金で償うのが当然だろう!」
「な、何を……」
母の死は、凪佳の心の最も柔らかい部分を突き刺した。
心の痛みと驚愕で動きが止まった隙に、正雄が彼女のバッグを奪おうとし、同時に黒ずんだ太い腕を振りかぶった——
重い一撃が顔面に迫る。彼女は思わず目を閉じた。
だが……。
「ぐああっ!」
予想していた痛みは訪れず、代わりに正雄の苦悶のうめき声が耳に届いた。
凪佳が目を開けると、背の高い男が正雄の首を締め上げていた。
男は背を向けているため、正雄の喉元に食い込む手しか見えない。骨ばった指、手の甲に浮き出た血管からは、抗いがたい力が感じられた。
彼は全身を漆黒のスーツに包み、冷気すら漂うようなオーラをまとっている。研ぎ澄まされたばかりの名刀のように、強烈な威圧感を放っていた。
凪佳の心臓が高鳴った。男がわずかに振り返った瞬間、その整った横顔が目に飛び込んできた。
彫りの深い輪郭、高く通った鼻筋。切れ長の目は少しつり上がっており、典型的な女好きの相であるはずが、その瞳は氷のように冷たく、まともに見つめ返せないほどの鋭い光を宿していた。
雨の幕に遮られ、視界のすべてがぼやけている。
だが、颯真の顔立ちは鋭利な刃物のように、あまりにも鮮明に彼女の網膜に焼き付いた。
夢を見ているのかと思った。次の瞬間、男は平淡な口調で尋ねた。「怪我はないか?」
凪佳は一瞬呆然とし、慌てて首を横に振った。
颯真は軽く頷くと、汚いものに触れたかのように手を払い、正雄を解放した。
「てめぇ、ふざけんな――」
正雄は手首をさすりながら歯をむき出しにして怒鳴ろうとしたが、黒服の屈強なボディガードたちが大股で近づいてくるのを見て顔色を変えた。
正雄は捨て台詞を吐いて逃げ出した。「覚えてろ!ただじゃおかねぇぞ!」
……
颯真と共に小さなマンションに戻っても、凪佳はまだ現実感がつかめなかった。
(高嶺颯真が……本当に来た?)
一時間前に送った、たった一通のメッセージのために?
凪佳がしどろもどろに礼を言うと、室内には気まずい沈黙が流れた。
視線をさまよわせると、颯真がずぶ濡れであることに気づく。彼女は慌てて乾いたタオルを探すと言い、逃げるように浴室へ駆け込んだ。
颯真は彼女の背中を数秒見つめた後、室内の調度品に目を向けた。
狭いが、整っていて温かい。自然と思い浮かぶ言葉は――
家。
無意識に口元が緩んだが、本棚の一列すべてが栄養学の専門書であることに気づくと、薄い唇はすぐに一直線に結ばれた。
だが……。
颯真が本棚に近づき目を細めると、奥に隠された数冊の医学雑誌と、ゴムが黄ばんだ聴診器が見えた。
光の当たらない隅に追いやられたそれらは、彼女がまだ手放せない医療への夢を静かに物語っていた。
浴室で、凪佳は颯真を待たせてはいけないと新しいタオルを引っ張り出し、急いで戻ってきた。「高嶺さん、これーー」
言葉が途切れた。彼女は目を丸くし、口をつぐむ。
颯真が……
上半身裸だったのだ!
視界に入ってきたのは、男の広い肩、引き締まった腰、そして彫刻のように割れた腹筋だった。
彼の目に宿る、野生の獣のような鋭い光に、凪佳は圧迫され、視線を外すことすら忘れてしまった。
肌に残った水滴が首から胸元を伝り、シャツの生地に染み込んでいく。彼女もそれに目を奪われ、つい鎖骨のあたりまで視線を落としてしまった。
颯真の冷ややかな視線に射抜かれ、凪佳はハッと我に返った。
頬が一気に真っ赤になり、逃げようとした――が。
だが、颯真の方が早かった。彼は一歩踏み出し、彼女を壁際に追い詰める。
「あ、あの……」
心臓が早鐘を打つ。何か言おうとするより先に、頭上から男の低い声が降ってきた。「本気か?俺と結婚したいというのは」
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