
もう戻れない、私たちの七年目
章 2
案ずるまでもなく、ある日の早朝、陸沈は言嘉の前に跪いていた。
簡素な白いシャツの袖は腕までまくり上げられ、そこには消え残った幾筋かの浅い傷跡が覗いていた。
それはかつて、彼女を庇って刃物を受けた際にできたものだ。
言嘉は笑った。彼は過ちを犯すたびにこの傷を見せつけ、彼女の同情を引こうとするのだ。
「嘉嘉、俺が悪かった」彼は彼女を見上げ、その瞳には狼狽の色が浮かんでいた。「蘇暖が……蘇暖が妊娠した。父上が偶然そのことを知って、この子は絶対に産ませろ、と」
言嘉はただ、淡々と「そう」とだけ応えた。
陸沈は言嘉の手に触れようと手を伸ばしたが、途中でぴたりと止めた。「嘉嘉、君にとって酷な話だとは分かっている。だが……陸家の礎を、みすみす他人の手に渡すわけにはいかないんだ」 「君は身体が弱いから、俺は君に辛い思いをさせたくない。だから蘇暖に産ませるだけだ。子供が生まれたら、大金を持たせてすぐに追い出す。二度と俺たちの前に現れないように。 この子は……この子を、俺たちの子供として育てよう。駄目か?」
さらに彼は言葉を継いだ。「君が苦しんでいるのは分かっている。だが、俺だって同じなんだ。 信じてくれ、俺の心には君しかいない」
言嘉は床に跪く陸沈を見つめた。
裏社会でその名を轟かせ、誰もが恐れるこの男が、今は許しを乞う子供のようだ。
彼女は静かに微笑み、問いかけた。「陸沈、本気でそうするつもり?」
陸沈は一瞬戸惑い、不快そうに眉をひそめた。「嘉嘉、他に方法がないんだ。 あれは事故だった。薬でも盛られていなければ、俺が彼女と関係を持つはずがないだろう? それに、陸家の百年の歴史、父上が生涯をかけて築き上げたものを、みすみす他人に奪われるのを見過ごせと言うのか。 この状況を乗り切るには、この子が必要なんだ。 分かってくれるだろう……?」
「いいわ」 言嘉は彼の言葉を遮った。「産ませればいいじゃない」
陸沈は勢いよく顔を上げ、その目に驚きと喜びの色がよぎった。「嘉嘉、許してくれるのか?」
言嘉は彼に視線を合わせず、「ええ」とだけ呟き、くるりと背を向けて二階へと向かった。
陸沈は立ち上がり、彼女の後ろ姿を見つめて安堵の息を漏らすと、足早に追いかけてその身体を支えようとした。だが、その手はさりげなく避けられた。
彼は一瞬動きを止め、それ以上は近づかなかった。
自室に戻ると、言嘉はポケットからスマートフォンを取り出し、記憶に焼き付いていた番号をようやくダイヤルした。
三度目のコール音で電話は繋がり、受話器の向こうから弾んだ男の声が聞こえた。「嘉嘉か? 決心がついたんだな!」
言嘉の目頭が熱くなり、込み上げる涙を奥歯を噛み締めて必死にこらえた。
兄の声は喜びに満ちていたが、どこかこうなることを見越していたような響きがあった。
彼女は幼い頃に行方不明になり、兄に探し出された時には、すでに陸沈と籍を入れていた。
まだ、陸沈に自身の素性をどう打ち明けるか、考えがまとまっていなかった。
そんな矢先に、蘇暖の一件が起きたのだ。
今となっては、もう打ち明ける必要もない。
言嘉は深く息を吸い込んだ。「お兄様、決めたわ。私、家に帰る」
電話の向こうの言琛は一瞬言葉を失い、やがて感情を押し殺したような嗚咽が漏れた。「……帰ってくればいい。帰ってくれば、それでいいんだ……」
彼は少し間を置いてから、張り詰めた声で続けた。「陸沈に何かされたのか? 嘉嘉、兄さんに話してみろ」
ここ数日の苦しみと屈辱を、言嘉は努めて軽く、何でもないことのように語った。
受話器の向こうで、しばしの沈黙が流れた。
やがて、痛みをこらえるような言琛の声が聞こえた。「……分かった。お前の言う通りにしよう」
「だが、これだけは覚えておけ。お前は言家の娘だ。もし耐えられなくなっても、たとえ天が落ちてこようと、言家の人間がお前を見捨てることはない」
言嘉は鼻の奥がツンとなり、堪えきれなくなった涙がとうとう頬を伝った。「ええ、分かっているわ」
電話を切った後、言嘉はスマートフォンの画面に映る陸沈とのツーショットを見つめた。
結婚三周年の記念に撮ったもので、彼が彼女を抱きしめている。
彼女は写真の中の彼の顔を指でなぞった。涙が、ぽつりと画面に落ちた。
夕食の時間。
温かな黄色の光が皿を照らし、ステーキが艶やかな光を放っている。
言嘉は牛肉を小さく切り分けて口に運んだが、まるで砂を噛んでいるようだった。
いつの間にか窓の外は暗くなり、やがて雨粒が床までのびる大きな窓を叩き始めた。
陸沈のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を一瞥し、少し声を和らげて電話に出た。「もしもし?」
受話器の向こうから、すぐに途切れ途切れの、か細い女の泣き声が聞こえてきた。「陸沈さん……わ、私、お腹が痛くて……外はこんなに雨が降っていて、怖いの……」
陸沈は眉をひそめ、無意識に言嘉の方へ視線を向けた。その目には困惑の色が浮かんでいる。
言嘉は陸沈を見上げ、意外にも口の端に笑みを浮かべて言った。「行けばいいじゃない」
陸沈は一瞬呆気にとられたが、すぐに安堵の息をつき、立ち上がって彼女の額にキスをしようとした。
言嘉がわずかに顔を背けたため、そのキスは彼女の髪の上に落ちた。
陸沈の動きが一瞬固まる。彼は低い声で囁いた。「嘉嘉、すまない。用が済み次第、すぐに戻る」
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