
もう戻れない、私たちの七年目
章 3
「ええ」 言嘉は短く応えた。
別荘の重厚なドアが閉まり、車のエンジン音が雨音に溶けて遠ざかっていく。その音がかき消えるのを待っていたかのように、言嘉の顔から笑みがすっと消え、瞳の奥に底冷えするような光が宿った。
夜が更けても雨は降り止まず、陸沈は帰ってこなかった。
言嘉は、むしろ心の底から安堵していた。長年背負い続けた重荷を、ようやく下ろせたような解放感があった。
彼女は金庫を開ける。中には不動産や株式の権利証だけでなく、壁の半分を埋め尽くすほどの、陸沈がここ数年で贈ってきた宝飾品や骨董品が眠っていた。
言嘉は携帯電話を取り出し、懇意にしているオークションハウスの責任者に電話をかける。その声は凪いだ湖面のように静かだった。「王マネージャー、朝お送りした写真の品、すべてです。今すぐ時価でオークションに出してください。できる限り早く現金化し、指定の匿名口座へ。くれぐれも、迅速かつ内密にお願いします」
電話を切ると、彼女はもう一つのファイルを取り出した。陸沈がまだ若かった頃、半ば押し付けるように渡してきた陸氏グループの株式保有証明書だ。――この家の女主人へ、お小遣いだ。彼はそう言って笑った。
言嘉の指先が、「陸氏グループ」の文字の上でわずかに止まる。彼女はすぐさま、兄から紹介された金融マネージャーに電話をかけた。「以前お渡ししたリストの通り、陸会長の誕生日に、陸氏グループの株をすべて売却してください。それと、準備をお願いしていた空売りの件。可能な限り、最大規模で仕掛けてください」
電話の向こうで、マネージャーの声が驚きに裏返った。「言様?本気でございますか? 我々が動けば、陸家に反撃の術はありませんぞ」
「ええ、覚悟の上です」言嘉は彼の言葉を冷静に遮った。「後悔はしない」
電話を切り、言嘉は金庫に背を預けた。窓の外で降り続いていた雨が、次第に弱まっていく。
空が白み始めた頃、立て続けにメッセージが届いた。
オークションハウスから。【すべての宝飾品および骨董品の売却完了。現金送金済み】
金融マネージャーから。【空売りの準備、すべて整いました。あとはお嬢様のご指示を待つのみです】
携帯電話の画面に表示された数字の羅列を眺めながら、言嘉は、長年凍てついていた心の湖に、ようやく一筋の亀裂が走り、そこから光が差し込むのを感じていた。
いつか陸沈は言ったではないか。
――陸家の財産なんてどうでもいい。最悪、二人で貧乏暮らしをするだけさ。
あの言葉を、今でも笑って口にできるだろうか。雲の上の暮らしから突き落とされ、本物の貧しさをその身で味わった後でも。
携帯電話を仕舞った、その時だった。別荘のドアが、乱暴に開けられた。
玄関に、陸沈が立っていた。その後ろには蘇暖、そして彼女によく似た目元をした、十四、五歳ほどの少女が寄り添うように立っている。
蘇暖は陸沈のジャケットを羽織っていた。まだ膨らみの目立たない腹部、蒼白な顔。彼女は言嘉の姿を認めると、怯えたように陸沈の背後へ身を隠した。
「嘉嘉、昨夜帰れなかったのは……。 蘇暖が、その……妊娠初期で体調が優れなくて。少し雨に濡れたせいもあって、何かあってはと心配で、一晩そばにいたんだ。 彼女一人では心許ないし、妹さんの面倒を見る人もいないから、ひとまず家政婦が見つかるまで、数日だけここで預かろうと思って……」
陸沈が言い終える前に、少女が蘇暖の手を振り払って言嘉の前へ飛び出した。幼い顔を懸命に上げて言嘉を睨みつけ、甲高い声で叫ぶ。 「この家はお姉ちゃんの家なのに、なんであんたがいるの!出ていけ、悪い女!」
叫ぶと同時に、その小さな手で、力任せに言嘉の体を突き飛ばした。
言嘉は避けなかった。腕を押されるがまま、無抵抗にその力みを受け止める。
彼女は少女を見下ろし、その細い腕を掴むと、まるで不要な物を捨てるかのように、蘇暖の足元へと放り投げた。
少女は体勢を崩して床に尻餅をつき、わっと泣き声を上げた。
蘇暖は慌てて駆け寄り、妹を抱きかかえながら、涙目で言嘉を見上げた。「奥様、申し訳ありません! この子はまだ幼くて……」
言嘉の視線は蘇暖を通り越し、陸沈に突き刺さった。「人の家に厄介になるのなら、連れてきたペットの躾くらい、きちんとなさることね。 それができないなら、初めから敷居を跨がせないでいただきたいわ」
陸沈が表情を険しくした。「嘉嘉、言い過ぎだぞ!」
言嘉は、ふっと冷ややかに笑った。「陸沈。どちらが『言い過ぎ』なのかしらね」
彼女は一拍置いてから、視線を蘇暖へと移した。「選択肢は二つ。今すぐその女たちを連れて出ていくか。 あるいは、この家のルールに従い、私の気に障るような真似は二度としないか」
その日の夕食は、ここ数日とは比べものにならないほど重苦しい空気に満ちていた。
食卓に並んだのは、陸沈が厨房に命じて作らせた、妊婦である蘇暖を気遣った薄味の料理ばかりだった。
言嘉は、主人の席に座っている。
陸沈の隣に座る蘇暖の視線が、言嘉の目の前にある一皿の点心――水晶のような海老蒸し餃子――に注がれていた。
それは、最近胃の不調を訴えていた言嘉のために、料理長が特別に山芋の餡を使ってこしらえた、胃に優しい一品だ。
蘇暖は、あどけなさを装ってその餃子を一つつまみ上げ、舌足らずな声で言った。
「わあ、美味しそう。一ついただいてもいいかしら」
スープをよそっていた陸沈は、その様子を見て穏やかに笑った。「食べたければ厨房にまた作らせればいい。嘉嘉のものを横取りするんじゃない」
言葉とは裏腹に、その声色に咎める響きは微塵もなかった。
言嘉は、視線を上げることもない。
この茶番がどこまで続くのか、ただ静かに見定めていた。
果たして、ものの数分も経たないうちに、蘇暖が突然腹を押さえて椅子から崩れ落ちた。顔は見る間に真っ青になる。「陸沈……お腹が……痛い、すごく痛いの……!」
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