
サヨナラの後は、兆円の令嬢として輝きます!
章 3
「でも、そこからなんだ……」藤川蓮の声がふっと落ち、かすかな揺らぎが滲んだ。「凪は美月とは違う。 もっと優しくて、もっと俺に寄りかかってくる。……それに、美月よりも俺のことを愛してる」
伊藤純一は冷たく鼻を鳴らした。「だから何だ。罪悪感もなく騙せたって?」
「騙してなんかいない!」蓮の声が鋭く跳ね上がり、すぐに沈んだ。「本気で彼女を好きなんだ。ただ……」
「ただ、何だよ?」
「ただ、美月のことを……どうしても忘れられない」 蓮の言葉には、どうしようもない葛藤が絡みついた。「美月は初恋なんだ。帰国してから向こうから会いに来て……俺、拒めなかった。でも凪も失いたくない」
「それで結婚証明書を偽造して、正式な夫婦だって思い込ませたわけか?」 純一の声には露骨な皮肉が滲んだ。「蓮、お前は本当に、分かりやすいほどクズだな」
蓮は数秒黙り込み、再び口を開いた時には、声に自嘲めいた笑いが混じった。「そうだよ、俺は欲張りなんだ。 美月の燃えるような情熱も欲しいし、凪の柔らかさも欲しい……。 二人がもし、争わずに穏やかに共存できたら、どれだけ素晴らしいだろうって、そんなことまで考えたんだ……」
「夢でも見てるのか?」 純一が遮った。「凪が、お前が二股してるって知ったら、許すと思うか?」
「知るわけない」 今度は蓮が遮った。「凪は単純で、俺を疑ったことがない。俺が美月といちゃついてる時に電話をかけてきても、何も気づかないんだ……」
その一言は、最後の重い一撃のように神崎凪の心を叩き潰した。
凪は踵を返し、音もなくエレベーターへ向かった。踏み出すたびに足元は綿のように頼りなく、ふわりと浮いて力が入らない。
なんて滑稽なんだろう。二年も愛した男が、ここまで救いようのないクズだったなんて。
……
凪は、自分がどうやって家まで戻ってきたのか覚えていなかった。
彼女は機械のように鍵を開け、機械のようにスリッパに履き替え、機械のようにキッチンへ入り、夕食の支度を始めた。
6時30分、ドアの鍵が回る音がした。
蓮が、いつもと変わらぬ様子で帰ってきた。その手には、みずみずしい百合の花束が抱えられていた。
「ただいま」 彼は微笑みながら凪に歩み寄り、その額に柔らかなキスをした。
凪は花束を受け取り、無理やり口角を上げた。
蓮は彼女の異変に気づいた様子もなく、勝手にスーツの上着を脱ぎながら言った。「何作った?いい匂いだな」
「あなたの好きなスペアリブよ」 凪は背を向けて花を花瓶に挿し、蓮に表情を見せないようにした。
食事の間ずっと、凪は蓮の一挙一動を観察していた。
彼のスマホがずっと手元に置かれ、画面が伏せられていることに気づいた。
それに蓮は、ときどきスマホへ視線をやった。まるで、何かの連絡を待っているみたいだ。
「少し、頭が痛いの」 食事を済ませた後、凪は不意に切り出した。「二階から薬を取ってきてくれる? ベッドサイドの引き出しにあるの」
蓮はすぐ立ち上がった。「もちろん。座ってて、動くなよ」
蓮の足音が階段の上で消えた瞬間、凪は素早く彼のスマホを手に取った。
画面がパッと明るくなり、パスワード入力を促された。
自分の誕生日や、二人の結婚記念日を試してみたが、どれも弾かれた。
三回目を試そうとしたその瞬間、通知が弾けるように表示された。「蓮、いい知らせ。私、妊娠した」
凪の指が、宙で固まった。
画面の文字は鋭い刃のように、まっすぐ凪の心臓へ突き刺さった。
凪はそのメッセージを見つめたまま、蓮が階段を下りてくる足音を聞いて、ようやく我に返って慌ててスマホを置いた。
「あったよ」 蓮は錠剤と水を持って歩み寄った。「顔色がひどいな。早めに休んだほうがいい?」
凪は錠剤を受け取り、飲み込んだふりをした。「大丈夫。 それより、会社で何かあったの? さっきからずっとスマホを気にしていたから」
蓮の表情が一瞬こわばったが、すぐに何事もなかったように戻った。「ああ、そうなんだ。プロジェクトでちょっと問題が出てさ。もう一度会社に戻らないといけないんだ」
「行ってきて。仕事が大事でしょ」凪は微笑んでみせたが、心の中では血がにじんでいた。
蓮は慌ただしく上着を羽織り、出ていく前に忘れず凪の頬へキスを落とした。「待たないで、先に寝て」
ドアが閉まった瞬間、凪の笑みは消えた。
目にたまっていた涙が溢れそうになり、彼女は上を向いて深呼吸した。それを落とすまいとするのは、彼女の最後の意地だ。
しばらく心を鎮めてから、凪はスマホを手に取った。そして、もう二年近く連絡していなかった番号に電話をかけた。
「父さん……私、家に戻って政略結婚する。そう決めた」
おすすめの作品





