
聖女は死んだふりをした
章 3
佳実 POV:
朱莉が座った途端, 会場の賑やかな雰囲気は凍り付いた. 彼女は何食わぬ顔で, ウェイトレスにシャンパンを注文した.
「みんな, 久しぶりね. 調子はどう? 」
彼女は周りの気まずい空気をまるで感じていないかのように, 笑顔で話しかけた.
「そういえばね, 私, 最近自分のブランドを立ち上げたの. 『ジュリアス』って言うんだけど, みんな知ってるかしら? 」
彼女は自慢げに, 自分のブランドについて語り始めた. 友人たちは, その話にあからさまに困惑した表情を浮かべた. 朱莉の家は没落したはずだ. 彼女に, そんな資金があるはずがない.
「晴司, あなたも知ってるわよね? 私のブランド, 今, 大人気なのよ」
朱莉は晴司と私を挑発するように, ニヤリと笑った.
「そのブランド, どうやって立ち上げたんだ? 」
友人の一人が, 恐る恐る尋ねた.
「あら, 秘密よ. でも, 私の今のお相手が, かなりの額を投資してくれたの. それに, 彼の莫大な人脈も使ってくれたわ」
朱莉は, 晴司の顔をちらりと見て, 再び私に視線を向けた.
その瞬間, 私の頭の中で何かが砕け散った. 晴司が最近, 私に「仕事が忙しい」と繰り返していたのは, 朱莉のブランドのために奔走していたからだ. 私がどれほど彼に尽くしても, 彼は裏でこんなことをしていたなんて.
心臓が, まるで誰かに握りつぶされるような痛みに襲われた. 私は思わず胸を押さえ, 呼吸が苦しくなった.
「佳実! どうしたんだい? 医者を呼ぶぞ! 」
晴司が慌てて立ち上がり, 私の傍に駆け寄ろうとした.
「あら, 愛しい奥様は, 愛されていても死人のような顔をしているのね. 可哀想に」
朱莉が嘲笑うように言った. その言葉に, 晴司の顔が怒りで歪んだ.
「黙れ, 朱莉! 」
彼は朱莉の頬を思い切り叩いた.
「二度と佳実を侮辱するな! 次は本当に, 二度と口を開けなくしてやる! 」
朱莉は頬を押さえ, 悔しそうに晴司を睨みつけた. だが, 彼の剣幕に気圧されたのか, 何も言い返せず, その場を離れていった.
朱莉が去った後も, 部屋の空気は重く沈んでいた. 晴司は私の手を強く握りしめ, 心配そうに私の顔を覗き込んだ.
「佳実, どこか痛むのか? 身体の具合が悪いのか? 」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめ, その手を振り払った.
「ごめんなさい, 少し気分が悪いわ. 休ませて」
私はそう言って, 部屋を出た.
廊下に出ると, 朱莉が待ち伏せしていた.
「ねえ, 知ってる? 彼との間に, 私, 二人の子供がいるのよ. あの子たちはもう, 一歳になったわ」
朱莉は勝ち誇ったように言った.
「彼はね, もう私のものなの. いくらあなたが聖女ぶっても, 彼の心はもう私の方を向いているわ」
「嘘だ…」
私の口から, か細い声が漏れた.
「嘘なんかじゃないわ. 今度, 子供が熱を出したとか, 少しでもトラブルがあったら, 彼はすぐに飛んでくる. あなたには決して見せない顔を, 私には見せてくれるのよ」
朱莉の言葉は, 私の心を深く抉った.
部屋に戻ると, 晴司はまだ落ち着かない様子で, 私を案じていた. 彼は私の額にキスをし, 優しく言った.
「佳実, 僕がずっとそばにいるから, 安心しておくれ」
その言葉は, まるで呪いのように私の心に響いた. 彼は私が子供を流産したことを知らない. そして, 朱莉の子供たちを「跡継ぎ」として歓迎している.
「晴司…お願い. 今日は, 私のそばにいて」
私は彼のシャツの裾を掴み, 消え入りそうな声で懇願した.
晴司の表情に一瞬の迷いがよぎった. 何か, 大切なものを失う予感に, 彼もまた捕われているようだった. しかし, 朱莉からのメッセージに子供が病気だと書かれていたことを思い出すと, 彼は私を見つめる瞳から迷いの色が消えた.
彼は私の指を一本ずつ, ゆっくりと引き剥がした.
「ごめん, 佳実. 急な仕事が入ってしまったんだ. すぐに戻るから, 待っていてくれ」
彼はそう言って, 部屋を出て行った.
私は深く息を吸い込んだ. 彼の心が, もう私から離れてしまったことを, この目で, この耳で, この肌で, はっきりと感じた.
数分後, 再び朱莉からメッセージが届いた. 震える指で動画を開くと, 案の定, そこには朱莉と晴司が映っていた. 朱莉は泣きながら, さっきのパーティーでの出来事を晴司に話していた.
「晴司…ごめんなさい. 私, あなたに会いたくて, つい…」
朱莉は演技がかった声で, 晴司に抱きついた.
晴司は朱莉の頭を撫で, 優しく言った.
「ああ, もう気にしなくていい. 君には, 僕がついてる」
「でも…佳実さんの子供のために買ったあの島…」
朱莉がわざとらしく, 晴司に問いかけた.
「ああ, あれは佳実のために買ったものだからな」
晴司は一瞬, 眉をひそめたが, すぐに朱莉の子供たちを見て, 表情を緩めた.
「…いや, 君と子供たちのために使おう. 佳実には, また別のものを買ってやる」
彼はそう言って, 朱莉を抱きしめた.
朱莉から送られてきた音声メッセージには, 彼女の勝ち誇った声が響いていた.
「ねえ, 聞いた? あの島, もうあなたのものじゃないわよ. もうすぐ, あなたの夫も, 子供も, 全部私のものになるのよ」
私の手から, スマートフォンが滑り落ちた. 私はただ呆然と座り込み, 過去の晴司の優しい言葉を思い出していた. 彼の「唯一の愛」など, ただの複製に過ぎなかった. 私の心臓は, もう何も感じない.
私は, 彼が腐りきっていることに気づいた. そして, 私もまた, 彼によって, ゆっくりと腐食させられていたのだ.
もう, 彼との関係は, これ以上続ける意味がない. 明日, 私は彼のもとを去る.
おすすめの作品





