
奪われた子供と妻の決意
章 2
田島琴莉 POV:
京佑が寝室を出ていく音を聞きながら, 私はただ, シーツを握りしめていた. ドアがゆっくりと閉まる. 彼の足音は, まるで嵐の前の静けさのように, 徐々に遠ざかっていった.
ベッドサイドの小さなランプだけが, 部屋の隅を寂しげに照らしている.
京佑の背中から伝わってきた, あの微かな焦燥感. まるで彼の心が, 私を置いて走り出しているようだった. 和歌菜が彼を呼んだ瞬間の, あの動揺. それは, 単なる旧友への義理や, 家族間のしがらみだけでは説明がつかない, もっと深い感情が絡んでいるように感じられた.
彼の心の中には, まだ和歌菜の居場所がある. いや, もしかしたら, 彼は一度も和歌菜を忘れたことなどないのかもしれない.
私は天井を見上げたまま, 目を開けていた. まぶたの裏に, 京佑と和歌菜が再会する光景が鮮やかに浮かび上がる. 彼らが互いを見つめ, 言葉を交わし, そして…
考えるのをやめた.
時計の針が, チクタクと音を立てて進むのをただ聞いている. 夜が明けていく気配がした.
私は, 自分の結婚生活が, こんなにも脆いものだったのかと自嘲した. 幸せな日々の中に, なぜこんなにも深い亀裂が隠されていたのか.
数ヶ月前, 京佑の書斎を掃除していた時のことだ.
偶然, 彼の古いパソコンのデータフォルダを見つけてしまった. 好奇心に駆られて開いてみると, そこには, 京佑と和歌菜の親密な写真がたくさん保存されていた. 大学時代のものだろうか, 二人はいつも寄り添い, 楽しそうに笑っていた.
その中でも, 私を最も打ちのめしたのは, 和歌菜が京佑に送ったであろう手書きのメッセージが写された写真だった.
薄いピンク色の便箋に, 京佑への愛情が綴られていた.
「京佑, あなたは私の全て. この先もずっと, 隣にいてね」
その言葉は, まるで私の心臓を直接掴まれたかのように, 息苦しくさせた. 京佑の, 和歌菜を見つめる眼差し. そこには, 私が知る夫とは違う, もっと深く, もっと激しい愛情が宿っていた.
その時, 私は悟った. 京佑が本当に愛していたのは, 私ではなく, 和歌菜だったのだと.
私はパソコンの電源を落とし, 何も見ていないふりをした. その日から, 私の心には, 拭い去ることのできない黒い影ができた. 京佑の優しい笑顔を見るたびに, その裏に隠された和歌菜の存在がちらついた.
今朝の出来事は, その影を, より一層濃くしただけだ.
夜が明けた. けたたましいアラームの音が, 私の意識を現実へと引き戻した. 京佑が家を出てから, 一体どれくらいの時間が経ったのだろう. 彼はまだ帰ってきていない.
携帯には, たった一通のメッセージが残されていた.
「和歌菜の容態が思わしくない. また連絡する」
簡潔な言葉に, 彼の焦りが滲んでいた. しかし, 私にはそれだけでは伝わらない別の感情も読み取れた.
京佑は, 今日が私たち夫婦にとってどれほど大切な日であるかを, 完全に忘れているようだった.
今日, 私たちは, 結婚三周年記念日旅行に出発するはずだった. 数ヶ月前から二人で計画を立て, 予約も済ませていた. 私がどれほどこの旅行を心待ちにしていたか, 彼は知っているはずだ.
私たちの旅行計画は, 京佑のたった一言で, 脆くも崩れ去った.
寂しさが, 私の胸を締め付けた. 京佑はまだ帰ってこない. 私は, 彼に電話をかけた.
何度もコール音が鳴り続ける. 焦りが募る. その時, 保留音が聞こえてきた. 京佑は電話中だった.
すぐに, 彼からメッセージが届いた.
「どうした? 」
たった二文字. その簡潔さに, 私の怒りが爆発しそうになった.
「今日の旅行, どうするの? 」
私は震える指でメッセージを打った. そして, 数分待ったが, 彼からの返信はなかった.
私は, もう待てなかった. 自分でタクシーを呼び, 空港へと向かうことにした.
タクシーが空港に近づいた頃, 私の携帯が鳴った. 京佑からだった.
「琴莉, ごめん! 今, 気づいたよ. 本当に申し訳ない」
彼の声は, 昨夜よりもずっと疲弊しているように聞こえた.
「和歌菜が, 昨夜からずっと意識を失っていて…」
彼はそう言って, 言葉を詰まらせた.
「今から, 君のもとへ向かっても, 間に合いそうにない. 凛々 (私の親友) に連絡して, 一緒に行ってもらえないか? 」
彼の提案に, 私の心はさらに冷え切った. 彼は, 私を友人に託して, 和歌菜のそばに残るつもりなのだ.
「もういい」
私はそう言って, 電話を切った. 友人には, こんな情けない姿を見せたくない.
私は, もうどうすればいいのか分からなかった.
目の奥が熱くなり, 涙が溢れそうになった. こんな状況で, どうやって凛々に事情を説明すればいいのか. 私がどれほど惨めな状況にいるのか, 彼女に知られたくなかった.
京佑は, 本当に和歌菜が瀕死の状態だと信じているのだろうか? それとも, これはただの, 彼の浮気を隠すための巧妙な言い訳なのだろうか?
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