
元カレの頂点に君臨する男の、秘密の愛玩妻。
章 3
一週間後、2人は区役所で落ち合った。
手続きはあっという間に終わった。
署名し、捺印する。手にした書類の並んだ2人の名前を眺めていると、自分が本当に結婚したのだという実感が、現実味を欠いたまま美咲の胸に押し寄せた。
神崎悠真の声が耳元で響いた。「君のマンションに行こう。引越しを手伝うよ」
美咲はここに至ってようやく、自分と悠真が結婚したのだと実感した。これからは寝食を共にし、誰よりも近い存在になるというのに、彼女は彼のことをほとんど何も知らない。
彼がどこに住んでいて、どんな習慣があり、何が好きで何が嫌いなのか、彼女はすべて知らなかった。
車の運転手はずっと無言だ。美咲と悠真は後部座席に座っているが、2人の間には腕1本分の距離が空いている。
「彼は中村航太。私の助手の1人だ」 悠真が助手席の男を指さした。「今後何かあれば、直接彼に頼むといい」
航太が振り返り、恭しくうなずいた。「奥様、よろしくお願いします」
美咲は少し居心地悪そうに返事をした。
彼女のマンションは古い洋館をリノベーションしたもので、3階建てで外壁にはツタが這っている。
「私は3階です」美咲は車を降りた。
悠真も車を降り、航太には下で待つように命じた。
狭い階段の踊り場では、足音に合わせてセンサーライトが点灯する。美咲が鍵を取り出してドアを開ける時、悠真がすぐ背後の半歩の距離に立っているのを感じた。
シダーウッドの清冽な香りが彼の気配と共に漂い、抗いようのない存在感で彼女を包み込んだ。
ドアを開けた後、数十平米のワンルームは温かみがあり洗練された空間になっていた。オフホワイトのソファ、白木の本棚、壁には水彩画やデザインのラフ画が飾られている。
南向きのフランス窓の外には小さなベランダがあり、洗濯した数着の服と、繊細なレースの下着が数点、無防備に揺れていた。
美咲の顔がパッと赤くなった。
足早に近づき、物干しハンガーを取り込もうとしたが、悠真に手首を掴まれた。
「私がやろう」
悠真は手を伸ばして衣類を取り込んだ。長くて骨ばった指で、柔らかい布地を丁寧に取り外した。
下着、パジャマと一枚ずつ丁寧に畳み、傍らの籐カゴに収めていく。
「あの……。自分でやりますから」美咲は小声で言った。
悠真は顔を上げずに言った。「夫が妻の片付けを手伝うのは、当然のことじゃないか?」
彼は当たり前のように言うが、美咲は少し心臓が早く打っているのを感じた。
ベランダの片付けが終わったら、悠真はこの小さな空間を見回し始めた。本棚の本から、作業台の上の未完成のデザイン画に視線を移し、そして、ソファの肘掛けで視線を止めた。
そこには1本のマフラーが掛けられている。バーバリーの定番、メンズ用だ。
悠真は近づき、そのマフラーを手に取った。「彼の?」
美咲はテーブルの上の本を片付けているが、顔を上げてそれを見た。「ええ、隼人のです」
悠真はマフラーを2つ折りにし、ゴミ箱のそばまで歩いて行き、手を離した。
マフラーが中に落ちた。
彼は振り返って美咲を見た。「神崎夫人、過去の男の残滓など、ここに置いておくべきじゃない」
彼の言う通りで、美咲もそう思っているが、それでも彼女の心にはチクリと刺さるものがあった。
隼人にまだ未練があるわけではない。ただ、あの丸6年という時間は、良いことも悪いことも含めて、すべて彼女の人生そのものだったからだ。
悠真は彼女の感情の揺れに気づいたのか、歩み寄ってきた。「未練があるのか?」
「いいえ」 美咲は首を横に振った。「ただ、ちょっと可笑しいなと思って」
「何が可笑しい?」
「あのマフラーの持ち主を頼って、真実の愛で階級の壁を越えられると本気で信じていた自分が可笑しくて」 美咲は自嘲気味に笑った。「結局は、全てが水に映った月……。幻だったってわけね」
彼女は顔を背け、荷物の片付けを始めた。
服、本、画材、化粧品。
彼女の荷物は多くなく、すぐにスーツケース2つと段ボール一つにまとまった。
悠真はシャツの袖をまくり、重い方のスーツケースを受け取ると、もう片方の手で段ボールを持ち上げた。「君は何もしなくていい。残りは私がもう一度運ぶから」
美咲は自分でできると言おうとしたが、悠真はすでに荷物を持って外へ歩き出した。
この男は、今日までは手の届かないビジネス界の伝説で、彼女が高嶺の花と仰ぐ神崎家の当主だった。それが今では、自分の夫として、まるで夢みたいな話だが引越しの荷物運びまでこなしている。
下に着くと、航太が車のトランクを開けた。悠真は荷物を積み込むと、振り返って美咲に尋ねた。「残りのスーツケース一つ以外は、全部持ってきたか?」
美咲はバスルームのものをまだ片付けていないことを思い出した。「バスルームにまだ服が残っています。あそこは湿気が多いから、放っておくとカビが生えちゃうかも。この家は後で売るつもりだから、カビが生えたら掃除が大変だし」
南エリアの気候は特殊で、少しでも湿気のある場所に衣類を置いておくと、すぐにカビが生え、キノコが生えることすらある。
「私が取ってこよう」悠真は振り返って階段を上った。
美咲も後を追おうとしたが、航太に礼儀正しく引き止められた。「奥様は先に車へ。ここは旦那様にお任せください」
悠真がドアを開けた後、バスルームは決して広くはないものの、清潔に整頓されている。
洗面台には電動歯ブラシやスキンケア用品が置かれているが、どれも女性向けの物ばかりだ。鏡の横の棚には、薄紫色のタオルと数着の衣類が掛かっている。
彼の視線はそれらをさっと一通りなぞり――そして、隅にある棚で止まった。
1着のメンズシャツ。
彼の瞳が暗く沈んだ。
美咲と隼人が同棲していなかったことは知っている。だが、他の男の衣類が彼女のプライベートな空間にあるのを目の当たりにすると、やはり針を刺されたような痛みが胸に走った。
悠真は無表情のままシャツを無造作に丸め、先に捨てられたマフラーの道連れにするかのようにゴミ箱へ叩き込んだ。
彼は蛇口をひねって手を洗う。冷たい水が指先を洗い流していったが、胸に渦巻く苛立ちは少しも洗い流せなかった。
美咲と隼人の過去は既成事実で、彼は6年前から知っていた。
だが、知っていることと目の当たりにすることは別だ。あまりにも長く、彼はこの時を待ちわびすぎた。
車に戻った後、美咲は悠真の様子がおかしいことに気づいた。
彼女は尋ねた。「どうかしたんですか」
悠真は彼女を見ようともせず答えた。「何でもない」
だが、明らかに何かがあった様子だ。
美咲は少し考えて、ふと気がついた。「もしかして、何か見ましたか?」
悠真は何も言わなかった。
それはつまり、暗黙の肯定だ。
美咲は胸を締め付けられた。バスルームに何があっただろうか? 彼女は記憶を呼び起こした――ああっ、あのシャツだ。
先週、隼人がやって来た。重要な会議があるのに、その前にシャツにコーヒーをこぼしてしまったと言うのだ。
彼女の家は彼の会社から近かったため、彼はここでシャワーを浴びていった。
美咲は釈明した。「あれはアクシデントなんです。彼がコーヒーをこぼしてしまって、急遽着替えに来て、そのまま持って帰るのを忘れて……」
悠真の声音は少し冷たかった。「説明は不要だ。君たちのことに口出しするつもりはない」
しかし、固く結ばれた唇も、微かにひそめられた眉も、すべてが「不機嫌だ」と物語っている。
美咲の胸に奇妙な感覚が芽生えた。
(でも、どうして?)
「神崎さん」 美咲は小さな声で彼を呼んだ。
「ん?」
「怒っていますか?」
悠真はようやく彼女をちらりと見た。「怒ってなどいない」
美咲は確信を持って言った。「怒っていますよね」
悠真は顔を向けた。「妻の住まいに別の男の物があり、妻の部屋で別の男が夜を明かした可能性を疑いながら、平然としていられる夫などいるはずがないだろう」
美咲はわずかに呆然とし、そして静かに言った。「私たちの過去は事実です。でも、彼と一夜を共にしたことなんて……。一度もありません」
隼人はこの6年間、まるで藤原清花に操を立てるかのように、誰も寄せ付けなかった。キスやハグといった親密な触れ合いはあっても、彼女と一晩を共にしたことすら、ただの一度もなかったのだ。
「知っている」 悠真は再び顔を背けた。
だが、感情を抑えることができなかった。
(わかっているって、この人の何がわかっているというの?)
車は陵川市の天城レジデンスに入り、湖畔に建っている別荘の前で停まった。
庭園、プール、そして本館。広大な敷地面積を誇るそこは、美咲が思い描いた豪邸のすべてを満たしている。
美咲は尋ねた。「普段はずっとここに住んでいるんですか?」
悠真は彼女を中へと案内しながら答えた。「1年中出張しているから、陵川市のここにはあまり住んでいない。だが、結婚したのだから、これからはもっと帰ってくるようにするよ」
美咲の心臓がドクンと跳ねた。
(もっと帰ってくる?) (それって、つまり……)
悠真は彼女の考えを見透かしたように言った。「君の部屋は2階で、私の部屋の隣だ。安心していい。君の心の準備が整うまで、無理に指1本触れるつもりはない」
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