
初恋相手を選んだ夫に、この双子の存在は絶対に教えません
章 3
大塚英志が深い酔いに沈んでいた翌朝、結衣はいつもより早起きし、彼の胃をいたわる優しい粥をことことと煮ていた。
粥がちょうど良い加減に仕上がった頃を見計らったように、英志が階下へ降りてくる気配がした。
「起きた?朝ごはん、できてるよ」
階段の踊り場に立つ英志に、結衣は静かに声をかけた。
英志は無言で食卓につき、差し出された粥を口に運び始める。二人の間に会話はなく、朝の静けさだけが流れていた。
わずかに重苦しい、沈黙。
「ピロン――」
その空気を切り裂くように、英志のスマホがメッセージの受信を知らせた。
彼は視線を落とし、画面に目をやった。
「英志、あなたが他の誰かと結婚するなんて信じられない。私をわざと怒らせようとしてるんでしょ? どうなろうと、私は空港で待ってるから。あなたが来るって信じてる」
差出人は、坂本紗也。英志は画面を消し、返信はしなかった。
二年前、彼女が汐見を発った時、全ての連絡先はブロックしたはずだ。新しく変えた番号からの連絡なのだろう。
「ピロン――」
続けて、もう一通。
「英志、二年前、私があなたの前から消えたのには、どうしても言えない理由があったの。あなたのこと、忘れた日なんて一度もない」
「ピロン――」
「英志、もしあなたが来てくれなかったら、私はここを動かない。ずっと待ってる」
スマホの画面に表示されるメッセージを睨みつけながら、英志は唇を固く結んだ。
ブロックしようと指を動かしかけた、まさにその瞬間だった。
「英志、あなたがずっと知りたがってた、ご両親の事故の真相、ずっと知りたがってたでしょう?私に手がかりがある」 その一文を目にした瞬間、英志の瞳が激しく揺れた。
彼はスマホを置き、結衣に向き直った。「今日は、急に用事ができた。じいさんのところには行けそうにない」
(……やっぱり)
昨夜、あの場所で聞いてしまった会話が脳裏をよぎる。結衣は胸の奥からこみ上げる苦しさをそっと飲み込み、できるだけ平静を装って微笑んだ。
「うん、分かった。おじい様には私から言っておく。行ってらっしゃい」
英志はちらりと結衣を見た。結婚して二年、彼女はいつもこうだった。何を言っても逆らわず、ただ静かに、優しく、彼の言葉を受け入れる。
良き妻だった。友人たちの前でも決して失態は見せず、非の打ちどころがない。夫婦の営みだって、不思議なくらいに肌が合った。だからこそ、自分が彼女にどういう感情を抱いているのか、最近は余計に分からなくなっている。
(ただの慣れ、かもしれない)
そばにいることが、空気のように当たり前になってしまった。だが、かつて真綾に注いだような、あの熱く燃え上がるような愛情を、彼女に移し替えることはどうしてもできない。
二年前のあの日、沙耶が持っていってしまったのだ。愛というものに対する、すべての熱量を。
真綾は、彼が少年時代から憧れ続けた相手だった。舞踊科のマドンナである彼女が、自分を射止めるためにあれほど熱心に尽くしてくれたこともあった。なのに、未来を共にしようと決意したその瞬間に、彼女は彼を選ばなかった。
プロポーズの場に現れず、追ってきたメッセージにはこうあった。
『英志、フランスに行くチャンスを諦められたくないの。二年だけ、待っててくれないか?』
待つ。それが何より嫌いな男だと、彼女は知っていたはずなのに。翌日、英志は祖父の言葉に従い、結衣と婚姻届を出した。それ以来、紗也との関係は完全に途絶えていた。
……
英志が家を出てから、夜が更けても彼は戻らなかった。
結衣が何度電話をしても、繋がらない。嫌な予感がして、秘書の森山章賢に連絡を入れた。
「もしもし、森山さん?英志、まだ会社で残業してますか?」
「奥様?いえ、本日は特に残業の予定はございません。社長は午後早くに会社を出られましたが」
「……そう、ありがとう」
電話を切った後、一つの考えが静かに、しかし確かに形を結び始める。
だが、その輪郭を掴むより先に、胃の腑が激しく痙攣し、結衣はその場にうずくまった。
持病の胃痛が、ぶり返したのだ。
薬を飲み、ベッドに倒れ込むようにして横になる。
眠りは浅く、何度も悪夢を見た。そして目を覚ます朝、英志の姿はなく、スマホに着信もない。
痛みはますます激しくなる。
波のように襲い来る痙攣に、這うようにして車のキーを手に取った。
タクシーを呼ぼうにも、この邸宅街では気が遠くなるほど待たされるだろう。自分で運転するしかなかった。
ところが、病院まであと少しという交差点で、最悪のタイミングで胃痙攣が頂点に達した。ハンドルを握る手が小刻みに震え、思うように操作できない。
(もう少し……もう少しだから……!)歯を食いしばり、アクセルを踏み込む。その瞬間、左側の影から黒い車が飛び出してきた。
「ドン――!!」
耳をつんざく衝撃音。
視界が歪み、何か温かいものが額を伝う感覚。
(赤ちゃん……!)
意識が闇に沈む寸前、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
そして、途切れ途切れの会話が混ざり合う。
「急げ!救急だ!」
「妊婦さんだ!流産の危険がある!すぐに緊急連絡先に!」
「もうかけました!でも、出ません!」
「……」
意識が霞んで、全身が重い。結衣はまるで果てしなく暗く、冷たい海の底に沈んでいたようだった。時折、遠くで足音が響く。けれど、瞼は鉛のように重く、開かない。
再び意識が浮上した時、窓の外はすっかり闇に包まれていた。
「あっ、目が覚めました?」
付き添いの看護師が、ほっとしたように笑った。
「ここは……?」口を開くと、声はひどく掠れていて、自分でも驚くほどだった。体中の力が抜け落ちたようにだるく、額には白いガーゼが巻かれているのがわかった。
「病院よ。今朝、あなた、病院の前で事故に遭ったの。幸い、脳震盪は軽いし、命に別状はないわ。 でも、元々の胃炎が悪化してて、それに妊娠してるでしょ。 それで長いこと眠ってたのよ」
看護師は手早く説明すると、充電の切れかけたスマホを差し出した。
「ご家族に連絡してあげて。 こっちから何度も緊急連絡先にかけたんだけど、繋がらなかったから」
「……ありがとう」
看護師が去った後、結衣は暗い画面を見つめた。通話履歴を開く。
病院から、大塚英志の番号へ何度も発信されていた。全て、『不在』の表示。
(仕事中......だよね)
電源を切ろうと指を滑らせた時、目に飛び込んできたニュースの見出しがあった。
「著名舞踏家・坂本紗也が帰国 大塚グループ社長・大塚英志が自ら空港まで送迎 二人で一夜を共に」
パチン。
スマホが、結衣の指から滑り落ちた。
その瞬間、これまで抱えていた全ての疑いと憶測が、頭上から冷たい水を浴びせられたように冷え込み、凍てつくような冷たさが背筋を走った。
(そうか……会いに行ったんだ、坂本紗也に……)
だから昨日、あんなに急いで……
一晩中、帰ってこなかったのは、そういうことだ。二年ぶりに会ったのだから、彼らは……。
(……やめよう)考えるのをやめた。結衣は天井を見上げ、ただ、瞬きもせずにぼんやりとそこを見つめ続けた。
どれだけの時間が経っただろう。無意識に、両手が下腹部に添えられていた。(もう、終わりにしよう。ここが、潮時なんだ)
「……赤ちゃん」掠れた声が、暗い病室に落ちる。「パパのことは、教えてあげられないけど。でも、ママは絶対にあなたを守るから。パパの分まで、大切に育てるからね」
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