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愛執の代償~許さず、戻らず、振り返らず~ の小説カバー

愛執の代償~許さず、戻らず、振り返らず~

新井裕美は幼少期から、天野健吾の妻になる未来を疑わずに生きてきた。彼に愛される良妻となるため、本来の自由奔放な性格を押し殺し、ダンスや礼儀作法を身につけ、すべての情熱を彼一人に捧げてきたのだ。共に白髪になるまで歩む未来を夢見ていた彼女だったが、健吾から返ってきたのは度重なる無視と冷酷な仕打ちだけだった。決定打となったのは、命の危機にさらされた際に見捨てられたこと。彼に愛がないと悟った裕美は、ついに決別を決意する。本来の自分を取り戻した彼女は、裏切りへの復讐を遂行しながら、没落寸前だった実家を社交界の頂点へと返り咲かせた。今や世界を股にかける彼女の視界に、健吾の姿はない。焦燥感に駆られた健吾は、充血した目で彼女に復縁を乞うが、扉の向こうから現れたのは裕美ではなく、彼の叔父であり社交界の真の支配者だった。バスローブ姿の叔父の首筋には、生々しい情事の痕が刻まれている。彼は余裕に満ちた低音で、絶望する甥に言い放った。「これからは彼女を『叔母上』と呼ぶがいい」と。
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「ふざけるな!」 健吾の顔色は鉄のように硬く、青ざめていた。 「まだ恥を晒したいのか?」

その一言が、すべてを決定づけた。

裕美は、胸の奥に血の滴る裂傷を何本も無理やり抉られたような痛みを覚えた。

救わない。信じない。

彼女が今まで全力で愛し続けてきた男は、これほどまでに歪んだ価値観の持ち主だったのだと、初めて思い知らされた。

「私は、彼女を傷つけたりしてないわ!」

彼女は唇を噛み締め、頑なに訴えた。

だが、男はその声に耳を貸そうともせず、冷徹な視線を監督に向けた。

「この話は、ここまでだ」

そう言い捨てると、彼は視線を落とし、腕の中の莉奈を見つめた。 「手首はまだ痛むか? 病院へ連れて行こう」

莉奈は恥じらいに頬を染めた。、彼の腕に抱かれたまま、衆人環視の中を颯爽と去っていった。

裕美の足は震え、立っているのがやっとだった。骨の髄まで凍りつくような寒気が、彼女を飲み込んでいく。

幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた健吾が、またしても彼女を躊躇なく嵐の中心へと突き落としたのだ。

今回の事故に巻き込まれた誰もが、彼女の顔に唾を吐きかけてやりたいという憎悪の眼差しを向けている。

監督はその場で彼女を劇団から除名すると宣言した。それも、「天野社長が不問にしてくれたことに感謝しろ」という恩着せがましい言葉を添えて。

劇団の期待の星から、一転して嘲笑の的となるピエロへ。転落は一瞬だった。

賑やかだった講堂から人が消え、静寂が訪れる。

裕美は鉛のように重い足を引きずり、一歩一歩、痛みに耐えながら外へと向かった。

足の傷口の血は固まりかけていたが、ささくれだった木片が肉に食い込み、歩くたびに激痛が走る。

講堂の外に出ると、暗闇に包まれていた石段が、突然ハイビームによって真昼のように照らし出された。

後部座席のドアが開き、一人の男が光を背にして降り立つ。逆光の中で輪郭を現したのは、彫刻のように整った冷徹な顔立ち。

裕美はその場で凍りついた。

「お……叔父様?」

正確には、健吾の叔父だ。 天野龍之介。

親同士が決めた許嫁という関係で、物心ついた時から健吾の親族とは家族同然の付き合いをしてきた。だから彼女は、自分の両親以外の親族を、健吾と同じ呼び方で呼ぶ習慣がついていた。

「ああ」

チェロの音色のように低く響く声は、理性的で艶がある。 墨を流したような漆黒の瞳が、彼女の足の傷元で一瞬止まった。

「抱えてやろうか?」

語尾がわずかに上がるだけの、素っ気ない問いかけ。

だが裕美の耳には、どこか普段とは違う奇妙な響きを含んでいるように聞こえた。

彼女は驚いて顔を赤くし、慌てて手を振った。

「い、いえっ! 大丈夫です!」

「叔父様」と呼んではいるが、龍之介は彼女より十歳年上なだけだ。

しかも、均整の取れた体つきと整った顔立ちで、、甥の健吾よりも遥かに魅力的だった。

巷では、彼こそが財界を牛耳る真の支配者だと噂されている。

全身から発せられる威圧感と、人を寄せ付けない冷厳なオーラは、この世の誰一人として彼の眼中に入らないことを物語っているようだった。

天野家の他の年長者には甘えることができても、彼にだけは決してできない。

男の重たい視線が彼女の頭上に落ちる。 不意に彼が片手を差し出した。袖口に輝く精巧なダイヤモンドのカフスボタンが、その手の白さと滑らかさを際立たせている。

「手を貸そう」

裕美は反射的に拒絶しようとしたが、その時、男の親指の付け根あたりに真新しい切り傷があるのを目にした。

滲んだ血はまだ乾ききっていない。

彼女はハッとして、思わずその手を掴み、掌を返して確認した。

そこには、無数の切り傷が縦横に刻まれていた。どれもできたばかりの傷だ。

灯りが戻り、彼女は見た──彼女の足を挟んだ木板は、真新しい切口から力任せに折られているのを。それは誰かの素手の跡だった。

鼻の奥がツンと痛くなった。 彼の手首を掴む指に力が入り、指先が白くなる。

「いつまで見ているつもりだ?」 男の低い声は、相変わらず淡々としている。

裕美は感情の波から理性を引き戻し、自分の行為がタブーを犯していることに気づいた。

慌てて手を離す。蒼白だった顔が一気に真っ赤に染まった。

「ご……ごめんなさい。すぐに拭きます」

龍之介には極度の潔癖症がある。物に対してではなく、人との接触に対してだ。

他人に触れられることをひどく嫌い、許容できるのは服の上からだけ。

物心ついた頃から、祖父ですら抱かせず、使用人がうっかり触っただけで、長いこと体を擦り洗っていたという。

これは天野家における絶対のタブーだ。

裕美は慌てて消毒用のウェットティッシュを探したが、あいにく持ち合わせていなかった。

「お水を買ってきます!」

男は手を返し、手の甲を上にして傷を隠した。

「必要ない。乗れ。その足の傷、処置が必要だ」

これ以上触れる勇気などない裕美は、恐縮しながら自力で車のそばまで移動した。

後部座席に乗り込んでから、ふと気づいた。これくらいの怪我なら保健室に行けば済む話で、わざわざ彼の手を煩わせる必要などなかったのではないか。

だが、それを口にする間もなく、男も乗り込んできた。

本来なら広々とした後部座席が、彼の長い脚のせいで急に狭苦しく感じられる。

男の体から漂うほのかな白檀の香りが鼻腔をくすぐる。冷ややかでありながら、どこか温かみを感じさせる、不思議な香りだ。

彼女はお尻をずらしてできるだけ彼から離れ、うつむいてスカートの裾をいじった。

「助けていただき、ありがとうございます。叔父様」

男の視線は、二人の間に空いた不自然な隙間に注がれていた。長い沈黙の後、彼は短く「うん」とだけ答えた。

車が発進し、運転席との間のパーティションが上がると、車内の空気は息が詰まるほど重苦しくなった。

裕美の白い額に脂汗が滲み、鼻の頭にも薄ら汗が浮かぶ。

「俺が怖いか?」

突然の問いかけ。語尾はわずかに上がっているが、そこには逆らいがたい威圧感が漂っている。

「いいえ!」

裕美は勢いよく立ち上がろうとして――ここが車内だということを忘れ、頭を「ゴンッ!」と天井にぶつけてしまった。 頭蓋骨に響く鈍い音がする。

彼女は気まずそうに頭を押さえた。

「……ただ、叔父様が来てくださるとは思わなかったので、驚いてしまって」

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