
社長、奥様がまた離婚届を取りに行かれました
章 2
美月の脇を固めていた二人の若い男たちは、とっくに腰を抜かしていた。「伊東家の御曹司」という肩書きを聞いた瞬間、恐怖でがたがたと震え上がる。
美月は伏し目がちに、腹の底から湧き上がる怒りを噛み殺した。だが、ここで引くわけにはいかない。彼女は努めて冷静さを装い、男たちに命じた。「伊東さんがこれほどご執心なんだもの。あんたたち、しっかりと実演して差し上げなさい。せっかくの興を削がないようにね」
言い終えると、美月は切れ長の瞳を妖艶に細め、直人に向かって流し目を送った。「伊東さん、ちょうどいい機会だから勉強していったら?私の彼氏たちは、あなたと違ってとっても優しいのよ。ベッドの上で軍隊仕込みの野蛮な真似はやめてよね。私はともかく、あのか弱くて儚げな幼馴染ちゃんに、そんな激しいことして大丈夫なの?」
直人は美月を一瞥しただけで、何も答えなかった。ソファに深く沈み込み、タバコに火をつけた。その表情が冷淡なのか、別の感情なのかは読み取れない。吐き出された紫煙が指に絡みつき、彼の顔を霞の中へと隠していく。
美月は、彼のその態度が気に食わなかった。まるで被害者のような顔をしている。だが、血液すら凍りついているようなこの男を、一体誰が傷つけられるというのか。
得体の知れない苛立ちがこみ上げてくる。美月は当てつけのように、傍らの2人を叱咤した。「何をぼーっとしているの!伊東さんが見たいなら、堂々と見せつけてやりなさい。しっかり 手本を見せてあげなさい」
言い放つと同時に、美月は自身のドレスの肩紐に手をかけ、強引に引きずり下ろした。
隣にいた若い男は完全に怯えきっていた。助けを求めるように直人の方を向いたが、射殺すような視線を受け、条件反射で目をきつく閉じる。
「美月さん、俺……やっぱり外に出ましょうよ……」
そう言って床に散らばった服を拾おうとかがんだが、美月の鋭い眼光に射抜かれ、石のように固まった。
「何を慌てているの?」
美月が直人を睨み返そうとした瞬間、軍用のオリーブ色のコートが飛んできた。それは正確に彼女を捉え、頭からすっぽりと覆い隠した。払いのけようとした美月の体は、次の瞬間には宙に浮いていた。強靭な腕が、彼女を俵のように担ぎ上げたのだ。
「伊東直人!何すんのよ!!」
視界を奪われた美月には、今の直人の表情は見えない。その顔は無表情に見えるが、瞳の奥は地獄から這い戻った羅刹のように暗く、深く沈殿していた。
彼は片手で軽々と美月を担ぎ上げながら、もう一方の手の人差し指と中指に挟んでいた吸いかけのタバコで、 そして、容赦なく男の背中にジュッと押し付けた。同時に、もう片方の男の膝を容赦なく蹴り飛ばした。
押し殺したような悲鳴が2つ重なる。入口で様子を伺っていた田中大輔は、事態の悪化を恐れて慌てて飛び込んできた。
「い、伊東さん、待ってください!暴力はやめて!話だけは!」
「出て行け!」 獣のような唸り声に、大輔は完全に萎縮した。美月が荷物のように運び出され、ジープの後部座席に放り込まれるのを、ただ指をくわえて見送ることしかできなかった。
車は猛スピードで夜の街を駆け抜ける。まるで主人の怒りを物語っているかのようだった。やがて自宅に到着し、真っ赤なシーツが敷かれたベッドに放り投げられた時、美月の酔いはようやく大半が覚めた。
目に入ったのは、結婚してから一度も使われたことのない寝室の天井だった。なんとも皮肉で哀れな話だ。結婚して3年、決して仮面夫婦というわけではない。直人が任務から戻れば、どんなに喧嘩をしていても、ベッドの上での相性だけは悪くなかった。ただ、互いに自室を持ち、この「夫婦の寝室」だけは完全な飾り物と化していたのだ。
だが今夜の直人は、何かに取り憑かれたかのように、美月をこの部屋へと連れ込んだ。
「直人!一体何がしたいのよ?」 起き上がろうとした美月を、直人が覆いかぶさるようにして制圧した。その瞳は血走っていた。
「お前を、抱く!」
奥歯を噛み締めながら言葉を吐き出すと、直人は美月のドレスに手をかけた。軽い力で引いただけで、布地は悲鳴を上げて引き裂かれ、哀れな布切れと化した。
「高橋美月。俺じゃ優しさが足りないって?」
直人は冷ややかな笑みを浮かべ、美月の耳たぶに歯を立てて威嚇するように甘噛みした。「なら今夜は、俺なりの『優しさ』ってやつをたっぷりと教えてやるよ」
美月は身動きが取れなかった。必死に抵抗してみるが、それは檻から逃げるどころか、互いの体をより密着させるだけだった。直人は罰を与えるように耳元を舐める。その仕草は優美ですらあったが、声だけは氷の破片のように鋭く冷たかった。
「高橋美月、忘れるなよ。お前は俺の妻だ」
その時、唐突に携帯の着信音が鳴り響いた。直人の端末だ。無視するつもりだったようだが、ズボンのポケットに入れたままでは邪魔になる。どうせ脱ぐのだからと苛立ちながら取り出した彼は、画面に表示された名前を見た瞬間、その表情を明らかに和らげた。美月はそれを見逃さなかった。
美月は自嘲気味に笑い、画面を盗み見る。案の定、あの「幼馴染ちゃん」からだ。
「ハッ……あんたこそ忘れんじゃないわよ。自分には妻がいるってことをね!」
直人が視線を美月に戻す。彼が妻の意図を測りかねている隙に、美月は素早くその手から携帯を奪い取り、通話ボタンを押していた。
『伊藤芽衣』
電話の向こうの相手は、聞こえてきたのが直人ではなく美月の声だったことに驚き、数秒間言葉を失ったようだ。
『み、美月……さん?』
美月は直人をちらりと見た。彼が止めようとしないのを確認すると、さらに悪意たっぷりの笑みを深める。『ええ、私よ。ごめんなさいねえ。今、直人と取り込み中なの。久しぶりだから燃え上がっちゃって。彼、今ちょっと口が塞がってて電話に出られないみたいなの』
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