
懐妊逃亡〜その種、国家最高権力につき〜
章 2
鈴音は掴まれた手首を必死に振りほどこうとした。だが、ドアノブに触れるより早く、その手が伸びて彼女を抱きすくめた。ガチャリと音がする間もなく、あっけなくシートに押し倒されてしまう。
「お客様、何する気ですか!? 乱暴しないで!運賃なんていらないから、放してよ!」 鈴音は恐怖でパニックになり、支離滅裂なことを口走っていた。
「俺を助けてくれれば、後でたっぷりと礼をする」 男は残ったわずかな理性を振り絞り、ポケットから純金のカードを取り出すと、彼女の頭の上に掲げた。
本能的に拒絶しようとした。だが、そのカードを見た瞬間、ICUにいる祖父の顔が脳裏をよぎる。高額な入院費が必要だ。……鈴音は、抵抗をやめた。
せめてもの救いは、相手が非の打ち所がない美形だったことか。顔立ちも骨格も、これまで見た男の中で間違いなくトップクラスだ。
男の体内の熱は限界を超えていた。鈴音の柔らかな体が、彼の灼熱の肌に触れた瞬間、理性のダムが決壊する。
夜の経験がない鈴音にとって、初めての営みは痛みだけが鮮烈に残るものだった。
深い森の中、銀色の月明かりに照らされた白い車は、まるで深海を漂う小舟のように激しく揺れていた。
何度も泣かされた。ペースが落ちて終わったかと思えば、またすぐに次の波が来る。彼のスタミナは底なしのようだった。
最後には泣く気力もなくなり、鈴音の声は枯れ果てていた。
薄れゆく意識の中、男が電話をしているのが聞こえた。相手は彼を「閣下」と呼んでいた気がする。だが、その奇妙な呼び名について考える間もなく、鈴音は深い眠りの底へと沈んでいった。
早朝の風が窓から吹き込み、後部座席で眠っていた鈴音は目を覚ました。
「いった……」彼女は小さくうめく。
シートに身を預けたまま、鈴音は全身を走る鈍痛を感じる。その痛みによって記憶が無理やり呼び覚まされ、昨晩、この後部座席で見知らぬ男とどれほど無茶苦茶なことをしたのかを思い出させられた。
男が約束していた銀行カードのことを思い出し、彼女はすぐに体を起こしてあたりを探る。
鈴音はシートの上の方に、純金製の銀行カードが置かれているのを見つけた。そこにはメモも添えられている。
「カードの暗証番号は設定していない」
カードを手に居住まいを正す。昨晩、見ず知らずの男と一夜を共にしたという事実を噛み締め、泣くべきか笑うべきか、感情の置き場に困った。
鈴音が呆然としていると、スマホの着信音が鳴り響いた。慌てて出ると、病院からの支払いの督促だった。
気持ちを切り替え、鈴音はドアを開けて車外に出る。だが、両足が地面に着いた瞬間、内太ももに走った激痛に膝が折れそうになった。
彼女は天草天音への悪態をつきながら、よちよちと小刻みに歩いて運転席へと回った。シートベルトを締め、スマホをダッシュボードに置く。エンジンをかけ、二度と足を踏み入れたくないこの密林から車を走らせた。
昨日のあの男。車に乗り込んできた瞬間から、自分をハメるつもりだったに違いない。
あんな厚かましい人間、見たことがない。
アパートに到着すると、鈴音はシャワーを浴びて清潔な服に着替えた。そして、祖父の入院費を支払うために病院へと向かった。
30分後、さっぱりとした姿で病院の受付カウンターに現れた。男から渡された純金のカードで決済を済ませると、銀行側から即座に関係者へ連絡が入る。このカードを使ったせいで、自分がすでに何者かにマークされていることなど、鈴音は知る由もなかった。
支払いを終え、祖父のお見舞いに行こうとした時だ。外来棟を出たところで、前方の騒ぎにふと視線を奪われた。 3台の高級車が、整然と彼女の目の前に停車している。ナンバープレートの色は、街中でよく見かけるものとは違う。 とにかく、特別感が漂っていた。 一目で分かる、地位も名誉もある人間しか乗れない車だと。
トラブルは御免だ。鈴音は車を避けて入院棟へ向かおうとしたが、そこへ大統領秘書官の長谷川聡が歩み寄ってきた。彼は紳士的に一礼すると、「七瀬鈴音さんですね?」と問いかける。
その言葉に、鈴音は警戒心を露わにしながら頷いた。「そうですけど」
「七瀬さん、私の主人があなたにお会いしたいと申しております。ご足労ですが、同行願えますか」 本人確認を済ませた聡は、恭しくそう告げた。
鈴音は彼の言う「主人」になど心当たりがなく、断ろうと口を開きかけた。だが聡はそれを見透かしたように素早くスマホを取り出し、ある動画を見せる。画面には、彼女が受付で純金のカードを使って支払う姿が映し出されていた。
「七瀬さん、おじい様に会いたいのであれば、大人しく車に乗ることをお勧めしますよ。 さもないと警察に通報し、あなたが主人のカードを盗んだと証言することになります。もし罪が確定すれば、長い間おじい様には会えなくなってしまいますからね」 聡は変わらず、穏やかな笑みを浮かべていた。
鈴音はその言葉の裏にある意味を悟った。言うことを聞かなければ、一生祖父に会わせないつもりだ。
昨晩、あの男が口にした約束が脳裏をよぎり、彼女は屈辱と怒りで顔を真っ赤にした。
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