
別れの日、あなたの瞳は彼女を映していた
章 3
藤原翔太が離婚を望んでいないかもしれない――その考えが浮かんだ瞬間、古川結衣の胸は高鳴り、息が止まりそうになった。
だが、彼女の期待を込めた視線に対して、藤原翔太は鼻先で笑った。
「古川結衣、自分が何を言ってるか分かってるのか?」 その声には嘲りが満ちていて、古川結衣の耳に突き刺さるように響いた。無数の針がやわらかな心を貫くような感覚だった。「勘違いするな。俺が離婚したくないって?」
藤原翔太は古川結衣の顔をまっすぐに見つめ、氷のような目で言い放った。「古川結衣、よく覚えとけ。離婚を切り出したのはお前だ。だから後になって泣きついてきても、俺は知らないからな」
その言葉を投げ捨て、藤原翔太は一片の情も見せずに立ち上がり、ドアを勢いよく閉めて去っていった。
古川結衣はぼんやりと冷えたベッドに身を沈め、心に満ちた失望が胸を締めつける。
鼻をすんと啜り、小さく膨らみ始めたお腹にそっと手を当てた。そこには確かに、新たな命の鼓動が感じられた。
本当は、藤原翔太に妊娠のことを伝えるつもりだった。でも――もう、離婚するふたりなのだ。
そう思った瞬間、古川結衣の中で何かが静かに決まった。もう藤原翔太に伝える必要はない。たとえ一人でも――この子を、ちゃんと育ててみせる。
しかしすぐに、今の仕事のことが頭をよぎり、ため息がこぼれた。
かつて藤原里美――翔太のおばあさんが、翔太との距離を縮めるために、わざわざ彼の秘書として彼女を側に置いたのだ。
けれど今となっては、その役割も終わり。もう、この仕事も一緒に辞めるべきだろう。
…
翌朝。ワールドリンクグループ本社。
出社してすぐ、古川結衣は数人の噂好きな同僚に囲まれた。
「結衣さん、待ってたよ!ちょっと、例の件教えてよ!藤原社長とあの小林沙織って、どういう関係!?」
「ネットでもう大騒ぎだよ。藤原社長が国際的に有名なスーパーモデルの小林沙織のために、わざわざ歓迎パーティー開いたって。しかも会場には友人たちも呼んでたっていうし…これって、もう公にするつもりじゃない?」
「しかもさ、歓迎パーティーのあと、藤原社長と小林沙織が一晩一緒に過ごしたって話もあるの。もしかしたら、次期社長夫人ってことになるかもよ?」
その言葉を聞いた瞬間、古川結衣の胸にじんわりとした痛みが広がった。少しの沈黙ののち、彼女は静かに答えた。「そのへんのことは、私もよく知らない」
同僚たちは顔を見合わせて、からかうように笑った。「えー、嘘でしょ?結衣さんって藤原社長の専属秘書じゃない。会社でいちばん社長のこと詳しいのに、知らないなんてことある?」
古川結衣は、力なく口元をゆるめた。誰も知らない。彼女が藤原翔太の秘書であると同時に、誰にも明かされることのない「隠された妻」であることを。だからこそ、知っているはずのことすら――彼女は何ひとつ知らされないのだ。
小さくため息をついて、結衣は静かに言った。「本当に知らないの。だから、あんまり詮索しないで」
それでも食い下がろうとする同僚たちを前に、彼女はきっぱりと言葉を重ねた。「もう一度言うけど、何も話すことはない。これ以上聞かないで」 そして少し強めの声で続けた。「それに…あなたたち、会社に来たのは噂話をするため?」 「さっさと仕事に戻ったら?」
無表情のままそう言い放つ古川結衣に、同僚たちはどこか怯んだ様子を見せ、しぶしぶ口を閉じた。
「…わかったよ、結衣さん。もう何も聞かない」
彼女がその場を離れると、残された同僚たちはこそこそと彼女の背中を見送りながら、ボソボソと不満を漏らした。
「なにあの態度、偉そうに。あたかも自分が特別な存在みたいに振る舞っちゃってさ。藤原社長の秘書は彼女だけじゃないのに」
「ほんとそれ。三年前、突然秘書部に異動してきた時から、やたら綺麗だし、みんな『絶対社長と何かあるんじゃ…』って思ってたよね」 「でも実際は?この三年間、社長は一度も彼女に特別な目を向けたことないし、取引の場にも一切連れて行かないじゃん」 「専属秘書とか言っても、実際は飾りみたいなもんでしょ」
「もうすぐ彼女の『いい時代』も終わりじゃない?小林沙織が社長夫人になったら、真っ先に切られるのは彼女だよ」 「だってさ、自分の男の隣にあんな綺麗な秘書がいたら、普通は嫌でしょ」
「ほんと、それな…」
笑い声と冷ややかな噂がオフィスに広がるなか、彼女たちはおしゃべりに夢中になっていた。
けれど、古川結衣はまるで聞こえていないかのように無表情のまま自分のデスクへ向かい、機械のように仕事に取りかかった。
心のどこかで、分かっていた。表では笑顔を見せていた同僚たちが、裏では自分をどう見ていたのか――その現実を。 だが、反論する気力もなかった。なぜなら、彼女自身も、そんな自分をどこか滑稽だと感じていたからだ。
やがて時計の針が定時を告げ、秘書課の社員たちは次々と帰っていった。
そんな中、古川結衣のスマートフォンが鳴った。画面には、親友・向坂美咲の名前が表示されていた。
「結衣、今朝ニュース見たよ。藤原翔太とあの小林沙織って …あれ、嘘だよね?」
親友の疑い混じりの声に、古川結衣は小さくため息をついた。
「美咲…あれは本当よ」
その一言に、向坂美咲は息を呑んだのが電話越しにも伝わってきた。「えっ… …!?」
一日かけて心の整理をつけた古川結衣の声は、驚くほど静かで穏やかだった。「私と藤原翔太の結婚は、最初から契約みたいなものだったの。彼が私に何の感情も持っていないことくらい、わかってた。ただ、おばあ様の頼みだったから、彼も渋々受け入れただけ」 そして続ける。「でも今、彼が本当に愛してる人が戻ってきた。それなら、私が身を引くのが筋だと思う」
だが、向坂美咲は信じきれないように声を上げた。「でも…子どもは? 昨日言ってたじゃない。妊娠のこと、翔太さんに伝えて、驚かせてあげたいって…」
「彼にとって、それが『驚き』になると思う?」 古川結衣は無意識に、自分のお腹にそっと手を当てた。まだ何の変化もないその小さな膨らみに、切なげに微笑んだ。「…きっと“驚き”じゃなくて、“驚愕”だよ」そして、静かに続けた。「もう気が変わったの。私は離婚する。そして一人でこの子を育てる。彼に知らせる必要なんてない」
「離婚…本当に決めたの?」向坂美咲の声には、深い心配が滲んでいた。「でもさ、翔太さんに妊娠のことを隠したままワールドリンクグループに居続けたら、いつかは絶対バレるよ?」
「大丈夫。もう少ししたら辞表を出すつもり。そうすれば――本当にやりたいことに、また戻れるから」
夢のことを口にした瞬間、古川結衣の表情にふわりと笑みが灯った。
「本当なの? 結衣、ついに復帰するんだね!星野恭子」向坂美咲は喜びを隠せず、電話越しに何度も感嘆の声を漏らした。「やっぱりそうじゃなきゃ!結衣は『星葉石』――あの伝説の天才デザイナーでしょ!そんな才能があるのに、藤原翔太の秘書なんかやってたら勿体なさすぎるって、前からずっと言ってたじゃない!」
「星葉石か……」その懐かしい名を口にした瞬間、古川結衣の意識はふっと過去へと引き戻された。
そうだ――藤原翔太のために、自分自身をどれほど犠牲にしてきたのか。気づけば、もう「星葉石」という名さえ忘れかけていた。
そのときだった。「古川結衣」
低く落ち着いた男の声が、背後から響いた。
はっとして振り返ると、そこには藤原翔太が立っていた。複雑な表情で彼女を見つめていた。
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