
結婚記念日、妻は消える
章 3
私はゆっくりと振り返った.
浩司の目は, 私を射抜くように見つめている.
彼の表情には, 今にも問い詰めようとする焦燥感が滲み出ていた.
私は, 努めて冷静な表情を保った.
口元には, いつもの優しい微笑みを浮かべる.
彼の疑念を, 決して確信させてはならない.
私は, 最後の最後まで, 彼を欺き通すつもりだった.
「浩司? どうしたの, こんな時間に」
私の声は, 穏やかで, 彼が抱くであろう疑惑を打ち消すように響いた.
彼は私の言葉に, 一瞬たじろいだ.
彼の視線が, 私の顔をじっと見つめ, 何かを探しているようだった.
しかし, 私の表情からは, 何も読み取れなかっただろう.
浩司はゆっくりと私に近づいてきた.
「いや, 君の声が聞こえたから…. 誰と電話していたんだ? 」
彼の声には, 僅かな警戒心が混じっていた.
私は, 彼が私を疑っていることを感じ取った.
しかし, 私は動じない.
「ああ, 高塚先生よ. 最近, 学会で知り合った夫婦の話をしていてね. 夫が妻を裏切って, 離婚問題に発展しそうだって」
私は, わざとらしくため息をついた.
「本当にひどい話だわ. あんなに愛し合っていた夫婦なのに, 信じられない」
私はそう言って, 浩司の顔をじっと見つめた.
彼の表情に, 一瞬の動揺が走った.
彼の目が, 微かに揺れる.
しかし, すぐに彼は平静を取り戻した.
「まったく, そういう話は聞くに堪えないな」
彼はそう言って, 私を優しく抱きしめた.
浩司の腕の中で, 私は彼の体温を感じた.
しかし, 私の心は, まるで氷のように冷え切っていた.
彼は私の額にキスをし, 優しく髪を撫でた.
「結愛, 君だけは, 決して私から離れないでくれ. 君なしでは, 私は生きていけない」
彼の声は, 懇願するように響いた.
その言葉の裏に隠された, 彼の偽善に, 私は吐き気がした.
「浩司, もし, もしもよ? 」
私は彼の腕の中で, 顔を上げた.
「もし, あなたが私を裏切ったら, 私はどうすると思う? 」
私の声は, まるで探るように響いた.
浩司は, 私の言葉にすぐに反応した.
「そんなこと, ありえない! 私は君だけを愛している. 生涯, 君だけだ! 」
彼はそう言って, 私の手を強く握りしめた.
「私の命にかけて誓う. 私は決して君を裏切らない」
彼の目には, 揺るぎない決意が宿っているように見えた.
私は, ゆっくりと首を横に振った.
「それは, ただの比喩よ, 浩司」
私はそう言って, 彼から視線を逸らした.
彼の言葉は, あまりにも空虚だった.
浩司はしばらく沈黙した後, 私の頬に, ざらついた顎を擦り付けた.
彼の目には, わずかな不安が浮かんでいた.
彼は, 私が本当に彼から離れてしまうことを, 恐れているのだろうか.
彼は私を裏切っておきながら, 私を失うことを極度に恐れている.
その独占欲に, 私は鳥肌が立った.
「結愛, もし私が君を裏切ったら…」
浩司の声は, 低く, そして真剣だった.
「もしそんなことがあれば, 私はきっと地獄に落ちるだろう. 君は私の光だ. 君を失うことは, 私にとって死に等しい」
彼の言葉は, 私には何の響きも持たなかった.
私は, ただ無言で彼の言葉を聞いていた.
そして, ゆっくりと, 彼の腕の中から抜け出した.
もう, 彼の演技に付き合う必要はない.
二日後には, 私はこの場所から, 完全に消える.
彼の言う「地獄」は, 私が去った後に, 彼自身が作り出すものだろう.
彼が私を裏切ったように, 私もまた, 彼を裏切る.
いや, これは裏切りではない.
これは, 正当な報復だ.
「浩司, 明日からの出張の準備はできたの? 」
私は, 彼の言葉を遮るように尋ねた.
浩司は, 少し驚いた顔をした.
「ああ, もう済ませたよ. でも, まだ時間がある. もう少し君と一緒にいたい」
彼はそう言って, 再び私を抱きしめようとした.
しかし, 私は彼から距離を取った.
その時, 玄関のチャイムが鳴った.
浩司は, 眉をひそめた.
こんな時間に, 誰だろう.
秘書の声が, 玄関から聞こえてきた.
「社長, 大変申し訳ございません. 緊急の連絡です」
浩司は, 苛立たしげに顔を歪めた.
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