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氷解のカルテ ~十年後、捨てたはずの彼女に跪く~ の小説カバー

氷解のカルテ ~十年後、捨てたはずの彼女に跪く~

美しく変貌を遂げた水原澄子の前に、かつての初恋相手・佐伯司が担当医として現れる。十年前、醜く太っていた彼女は彼の友人たちから蔑まれ、生活を切り詰めて贈った高級ヴァイオリンを「ガラクタ」と一蹴された。その屈辱を胸に、澄子は血の滲むような努力で過去を捨て、別人のような美貌を手に入れたのだ。再会は予期せぬ事故だったが、冷徹な支配者だったはずの司は、彼女を前にして理性を崩壊させていく。あらゆる手段で彼女を囲い込み、逃げ場を奪う司。「君の命運は僕が握っている」と告げる彼に対し、澄子の傍らにはすでに結婚を誓った婚約者の影があった。焦燥に駆られ、デスクに彼女を押し付けた司は、充血した瞳で「別れろ、君の最愛は僕だ」と咆哮する。かつての仕打ちを「お遊び」と切り捨て冷笑する澄子に対し、策の尽きた傲慢な男はついに膝を突き、なりふり構わず愛を乞う。これは、十年の時を経て立場が逆転した二人の、執着と狂愛に満ちた復讐劇。かつて彼女を捨てた男が、今度は生涯をかけて彼女に跪くことになる。
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病院を後にした澄子は、逃げ込むように地下鉄に乗り込んだ。揺れる車内、窓に映る自分の顔を眺めていると、先ほど耳にした司の冷ややかな声が、呪文のように頭の中で繰り返される。

彼は、以前よりも冷たくなっていた。

忘れもしない、高校三年の夏休み。所属していた合唱団が全国大会で優勝を飾り、その祝勝会が、司の実家の会員制クラブで開かれた。

澄子の担当はバイオリンだったが、もともとクラシックより歌謡曲やポップスの方が得意だった彼女に、大会前、司は毎日二時間もつきっきりで指導をしてくれた。

それが彼女の初めての受賞だった。

お礼に、彼女は贈り物を用意した。いつもよりきちんと身だしなみを整え、会場へ向かった。ドアの向こうから聞こえてきたのは、嘲笑の声だった。

テーブルの上に置かれていたのは、彼女が司に贈ったそのバイオリンだ。

「あの『ごま煎餅』、どこにこんな金があったんだ? これ、20万はするだろ」

「食うもん切り詰めて貯めたんじゃねえの?司様よ、あいつの涙ぐましい努力に免じて、付き合ってやれよ」

「いくら食費を削ったって、あのデブは痩せねえよ。司が手を出すなんて、あり得ないって」

「カビだらけの田舎娘が、佐伯家の玄関も跨げやしねえ」

卑屈な笑い声が響く中、司の声がした。

その耳を切り裂くような言葉を、澄子は一生忘れない。

「……こんなガラクタ一本で、何を盛り上がってるんだ。 うちにはこれより高いのなんていくらでもある。欲しいならお前らにやるよ」

一瞬、部屋がシーンと静まり返った。次の瞬間、ボキッという鈍い音が響いた。

「あ、ごめんなさい佐伯様。わざとじゃないんだけど……どうしよう、弦が切れちゃった」 一人の女子が、猫なで声で謝った。

「気にすんなって。別に藤堂可奈がくれたわけじゃねえし。 さあ、飲もうぜ!」

扉の前に立ちすくんだ澄子は、息が詰まり、胸が締め付けられるように痛んだ。

けれど、司がそれを止める言葉を口にすることは、最後までなかった。彼はただ、周囲の喧騒に紛れるように、再び仲間の輪へと戻っていった。

弦の切れたバイオリンは、ゴミ同然に部屋の隅に放り投げられていた。

医学の名家に生まれ、裕福な家庭で育った彼。

自分はごく普通の家庭の娘で、彼から何かを得ようとはしなかった。

あのバイオリンは、素性を隠してイタリアンレストランでバイオリンを弾くアルバイトで、こつこつと半年かけて貯めたお金で買ったものだった。

一曲でもらえるのは、わずか600円。

半年間の努力。

それが彼にとっては、他人に譲る価値さえない「ガラクタ」でしかなかった。

地下鉄の到着を告げる無機質なアナウンスが、記憶の沼から澄子を引き戻した。

ふと気づけば、頬には熱い涙が伝っている。彼女は慌てて涙を拭い、地下鉄を降りた。会社で残務を片付けると、西城にある古い団地へと帰路についた。

今回帰国したのは、祖母が病に倒れたからだ。身寄りのない祖母を一人にはしておけず、キャリアを捨てて帝都へ戻り、同居することに決めたのだ。

まさか、自分まで体を壊すことになるとは思わなかったが。

敷地内に入ると、ちょうどバスケットボールを抱えて帰ってきた隣人の、南野秀一と鉢合わせた。

秀一は背が高く、大学院を出たばかりの青年だ。底抜けに明るく、快活な性格で、近所でも評判が良い。「澄子さん、今日はずいぶん早いんですね」

「ええ。ねえ秀一くん、この近くで漢方薬を煎じてくれる所、知らないかしら?」 澄子は秀一と並んで、階段を上り始めた。

秀一は足を止め、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。「澄子さん、どこか悪いんですか?」

「ううん、私じゃなくて。最近流行ってるし、おばあちゃんの体を整えてもらおうと思って」

「それなら、いい場所を知ってますよ。すぐ近くだ。明日、仕事が終わったら案内しますよ」 話している間も、秀一の眼差しはずっと、澄子を優しく見守っていた。

家に入ると、祖母がひょっこりと顔を出した。

「あら、秀一くんと一緒に帰ってきたのかい?」

「うん、さっき下で会ったの」

澄子が靴を脱ぎながら答えると、祖母は嬉しそうに後をついてきた。。

「秀一くんはいい子だよ。素性もわかってるしねえ。あんた、高校の時以来、浮いた話がないじゃない。もういい年なんだから、そろそろ身を固めなさいよ」

「もう、おばあちゃん……。彼は私よりずっと年下よ」

医者からは認知症の兆候があると言われているが、孫の結婚に関しては、その記憶力に微塵の衰えも感じられないのが不思議だった。

祖母は食卓の上に、一つの古びたガラス瓶を置いた。「今日、押し入れを整理してたら古いのが出てきてね。石ころが詰まった瓶だよ。あんたのおじいさんも、こんなものを私に残してどうするつもりだったのかねえ」

澄子は何気なくその瓶に目をやり――持っていたグラスを落としそうになった。

それは祖父のものなどではない。十年前、司が彼女にただ一度だけ贈ったものだ。

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