
氷解のカルテ ~十年後、捨てたはずの彼女に跪く~
章 3
それは、ただの石ころなんかではなかった。二十六の都市を巡って、それぞれの民政局の前で拾い集めた石だ。
かつて、司は言っていた。彼女が二十六歳になったら、結婚して、これらの都市を巡る新婚旅行に行こうと。
もうこんなに時が経った。司は、きっともう可奈と結婚しているだろう。
そして、自分のことなど忘れているに違いない。
忘れてくれた方がいい。もう二度と、何の関わりも持たない方がいい。彼女は、新しい人生を始めていたのだから。
不意に鳴り響いたスマートフォンの着信音が、澄子を過去の幻から現実へと引き戻した。
彼女は自分を鼓舞するように、その瓶を無造作にゴミ箱へと投げ捨てた。重い音が響き、過去が捨てられた。冷たい感触の通話ボタンに指を滑らせる。
「はい、長谷川部長」
彼女が勤めるのは、西城にあるアニメーション制作会社だ。今、まさに正社員採用の正念場となっていた。
「水原くん、『憧憬の帝都』プロジェクトだが、君を主担当に据えることにした。明日、広告スポンサーの藤堂社長がいらっしゃいます。絶対にミスは許されないぞ」
「……はい、承知いたしました」澄子は深く考える間もなく、反射的に応じていた。
祖母の医療費は伯父が出してくれているが、両親に余裕はなく、生活費は彼女がやりくりして捻出している。以前は貯金もあったが。
かつての蓄えも底を突きかけ、今度は自分自身の通院費という重荷まで加わった。
明日がプレゼンなのに、今夜になって知らされた。徹夜で資料を作るしかなかった。
「徹夜、か……」
ふと、あの低い声が脳裏をよぎる。
『できるだけ十一時には寝るように』心配そうに、けれど事務的に告げた司の顔。
澄子の唇に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。「……何考えてるのよ、私」
今は、彼のことなど一秒だって考えている暇はないというのに。
翌朝、クライアント会社がプロジェクト確認のために来訪した。会議室で座って待つ一同。同僚の恵が緊張のあまり澄子の腕をつかんで、「澄子、準備は本当にできてるの?」と尋ねた。
「ええ」 澄子は努めて冷静に、短く頷いた。
あの藤堂社長は業界じゃ有名な『鬼女』なのよ。重箱の隅をつつくような人だって噂。お気に入りの男の前でだけ、猫なで声になるらしいけど……」
澄子に先入観はなかった。むしろ、若くして巨大グループを率いる手腕には、純粋な敬意すら抱いている。「それだけ、仕事に対してプロフェッショナルだってことでしょ」
「……すぐに、そんなこと言ってられなくなるわよ」恵は首を振った。
その直後、会議室のドアが静かに開いた。長谷川部長が、二人の人物を伴って入室してくる。
先頭を歩く、長身の若い女性。その射抜くような鋭い眼差しに、室内の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
「藤堂社長、こちらがプロジェクトチームのメンバーです」部長が恭しく中央の席を譲ると、女性は紅く彩られた唇をわずかに吊り上げた。「皆様、はじめまして。藤堂グループ代表、藤堂可奈です」
その瞬間、澄子は全身が凍りついたかのように硬直した。
藤堂可奈——十年前、あの個室の外で、中から聞こえてきた名前だ。司と大学で婚約し、卒業したら結婚するという噂だった彼女。
(やっぱり、彼女が……司の奥さんなんだ)
はっと我に返った澄子は、咄嗟に視線を逸らした。
目の前の女性を直視することなど、今の自分には到底できなかった。
可奈が室内を見渡して言った。「それで、水原澄子さんはどちらかしら?」
澄子の意識はまだ現実から浮遊したまま、 恵が肘で小突いてくるまで、自分が呼ばれていることにさえ気づかなかった。
「は、はい。水原です」弾かれたように立ち上がった澄子の声は、自分でも情けないほどに震えていた。
言い終えるなり、彼女は再び視線を落とした。
十年前、可奈の顔を直接見たことはなかった。
そして、今の自分は「水原詩織」ではない。
たとえ当時、彼女が自分のことを調べていたとしても、この変わり果てた姿に気づくはずがない。
私は、水原澄子。あの頃の私じゃない――と自分に言い聞かせながらも、机の下で握りしめた拳には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。
「このプロジェクト、あなたの意図が理解できない箇所がいくつかあるわ。もし納得のいく説明ができるなら、この案を残してあげてもいいけれど」
可奈の冷徹な問いが、澄子を捉える。同僚たちの痛いほどの視線が、澄子の肩に重くのしかかった。
澄子は深く一つ呼吸を置くと、過去の残像を強引に振り払った。
プロジェクトは、自分の分身のようなものだ。プロとしての仮面を被り、可奈の投げかける鋭利な質問の一つ一つに、淀みなく、的確に答えていく。
その場で結論が出ることはなかったが、確かな手応えはあった。長谷川部長は上機嫌で、チームをホテルの会食へと誘った。
けれど、澄子の心は少しも晴れない。
もしプロジェクトが採用されれば、今後、藤堂可奈と接触する機会は避けられないだろう。
かといって、ようやく掴みかけた正社員への道を、今さら手放すことなどできない。
今の彼女には、何よりも、生きるための「金」が必要だった。
誰にも気づかれないよう、澄子は小さく溜息を吐き出した。
仕事終わりに約束通り、澄子は南野秀一の車で地域のクリニックへと向かった。
秀一の白いアウディがクリニックの前に滑り込む。「澄子さん、ここです。先に入っててください。僕、車を停めてきますから」
「わかったわ。後で連絡してね」 澄子は軽く手を振り、車を降りた。
そのクリニックは、多くの患者――その大半が高齢者で溢れ返っていた。所在なく院内を彷徨い、漢方薬の受付を探していると、背後から不意に声が掛かった。
「……何か、御用ですか?」低く、耳に馴染んだ、静かな声。
澄子の背筋が、凍りついたように伸びた。振り返る動作が、まるでスローモーションのように感じられる。
そこには、白衣を纏った佐伯司が立っていた。胸ポケットには、整然と並んだ六本の真新しいペン。
両手をポケットに深く差し込んだまま、彼は射抜くような瞳で、静かに澄子を見下ろしていた。
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