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氷解のカルテ ~十年後、捨てたはずの彼女に跪く~ の小説カバー

氷解のカルテ ~十年後、捨てたはずの彼女に跪く~

美しく変貌を遂げた水原澄子の前に、かつての初恋相手・佐伯司が担当医として現れる。十年前、醜く太っていた彼女は彼の友人たちから蔑まれ、生活を切り詰めて贈った高級ヴァイオリンを「ガラクタ」と一蹴された。その屈辱を胸に、澄子は血の滲むような努力で過去を捨て、別人のような美貌を手に入れたのだ。再会は予期せぬ事故だったが、冷徹な支配者だったはずの司は、彼女を前にして理性を崩壊させていく。あらゆる手段で彼女を囲い込み、逃げ場を奪う司。「君の命運は僕が握っている」と告げる彼に対し、澄子の傍らにはすでに結婚を誓った婚約者の影があった。焦燥に駆られ、デスクに彼女を押し付けた司は、充血した瞳で「別れろ、君の最愛は僕だ」と咆哮する。かつての仕打ちを「お遊び」と切り捨て冷笑する澄子に対し、策の尽きた傲慢な男はついに膝を突き、なりふり構わず愛を乞う。これは、十年の時を経て立場が逆転した二人の、執着と狂愛に満ちた復讐劇。かつて彼女を捨てた男が、今度は生涯をかけて彼女に跪くことになる。
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それは、ただの石ころなんかではなかった。二十六の都市を巡って、それぞれの民政局の前で拾い集めた石だ。

かつて、司は言っていた。彼女が二十六歳になったら、結婚して、これらの都市を巡る新婚旅行に行こうと。

もうこんなに時が経った。司は、きっともう可奈と結婚しているだろう。

そして、自分のことなど忘れているに違いない。

忘れてくれた方がいい。もう二度と、何の関わりも持たない方がいい。彼女は、新しい人生を始めていたのだから。

不意に鳴り響いたスマートフォンの着信音が、澄子を過去の幻から現実へと引き戻した。

彼女は自分を鼓舞するように、その瓶を無造作にゴミ箱へと投げ捨てた。重い音が響き、過去が捨てられた。冷たい感触の通話ボタンに指を滑らせる。

「はい、長谷川部長」

彼女が勤めるのは、西城にあるアニメーション制作会社だ。今、まさに正社員採用の正念場となっていた。

「水原くん、『憧憬の帝都』プロジェクトだが、君を主担当に据えることにした。明日、広告スポンサーの藤堂社長がいらっしゃいます。絶対にミスは許されないぞ」

「……はい、承知いたしました」澄子は深く考える間もなく、反射的に応じていた。

祖母の医療費は伯父が出してくれているが、両親に余裕はなく、生活費は彼女がやりくりして捻出している。以前は貯金もあったが。

かつての蓄えも底を突きかけ、今度は自分自身の通院費という重荷まで加わった。

明日がプレゼンなのに、今夜になって知らされた。徹夜で資料を作るしかなかった。

「徹夜、か……」

ふと、あの低い声が脳裏をよぎる。

『できるだけ十一時には寝るように』心配そうに、けれど事務的に告げた司の顔。

澄子の唇に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。「……何考えてるのよ、私」

今は、彼のことなど一秒だって考えている暇はないというのに。

翌朝、クライアント会社がプロジェクト確認のために来訪した。会議室で座って待つ一同。同僚の恵が緊張のあまり澄子の腕をつかんで、「澄子、準備は本当にできてるの?」と尋ねた。

「ええ」 澄子は努めて冷静に、短く頷いた。

あの藤堂社長は業界じゃ有名な『鬼女』なのよ。重箱の隅をつつくような人だって噂。お気に入りの男の前でだけ、猫なで声になるらしいけど……」

澄子に先入観はなかった。むしろ、若くして巨大グループを率いる手腕には、純粋な敬意すら抱いている。「それだけ、仕事に対してプロフェッショナルだってことでしょ」

「……すぐに、そんなこと言ってられなくなるわよ」恵は首を振った。

その直後、会議室のドアが静かに開いた。長谷川部長が、二人の人物を伴って入室してくる。

先頭を歩く、長身の若い女性。その射抜くような鋭い眼差しに、室内の温度が数度下がったような錯覚に陥る。

「藤堂社長、こちらがプロジェクトチームのメンバーです」部長が恭しく中央の席を譲ると、女性は紅く彩られた唇をわずかに吊り上げた。「皆様、はじめまして。藤堂グループ代表、藤堂可奈です」

その瞬間、澄子は全身が凍りついたかのように硬直した。

藤堂可奈——十年前、あの個室の外で、中から聞こえてきた名前だ。司と大学で婚約し、卒業したら結婚するという噂だった彼女。

(やっぱり、彼女が……司の奥さんなんだ)

はっと我に返った澄子は、咄嗟に視線を逸らした。

目の前の女性を直視することなど、今の自分には到底できなかった。

可奈が室内を見渡して言った。「それで、水原澄子さんはどちらかしら?」

澄子の意識はまだ現実から浮遊したまま、 恵が肘で小突いてくるまで、自分が呼ばれていることにさえ気づかなかった。

「は、はい。水原です」弾かれたように立ち上がった澄子の声は、自分でも情けないほどに震えていた。

言い終えるなり、彼女は再び視線を落とした。

十年前、可奈の顔を直接見たことはなかった。

そして、今の自分は「水原詩織」ではない。

たとえ当時、彼女が自分のことを調べていたとしても、この変わり果てた姿に気づくはずがない。

私は、水原澄子。あの頃の私じゃない――と自分に言い聞かせながらも、机の下で握りしめた拳には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。

「このプロジェクト、あなたの意図が理解できない箇所がいくつかあるわ。もし納得のいく説明ができるなら、この案を残してあげてもいいけれど」

可奈の冷徹な問いが、澄子を捉える。同僚たちの痛いほどの視線が、澄子の肩に重くのしかかった。

澄子は深く一つ呼吸を置くと、過去の残像を強引に振り払った。

プロジェクトは、自分の分身のようなものだ。プロとしての仮面を被り、可奈の投げかける鋭利な質問の一つ一つに、淀みなく、的確に答えていく。

その場で結論が出ることはなかったが、確かな手応えはあった。長谷川部長は上機嫌で、チームをホテルの会食へと誘った。

けれど、澄子の心は少しも晴れない。

もしプロジェクトが採用されれば、今後、藤堂可奈と接触する機会は避けられないだろう。

かといって、ようやく掴みかけた正社員への道を、今さら手放すことなどできない。

今の彼女には、何よりも、生きるための「金」が必要だった。

誰にも気づかれないよう、澄子は小さく溜息を吐き出した。

仕事終わりに約束通り、澄子は南野秀一の車で地域のクリニックへと向かった。

秀一の白いアウディがクリニックの前に滑り込む。「澄子さん、ここです。先に入っててください。僕、車を停めてきますから」

「わかったわ。後で連絡してね」 澄子は軽く手を振り、車を降りた。

そのクリニックは、多くの患者――その大半が高齢者で溢れ返っていた。所在なく院内を彷徨い、漢方薬の受付を探していると、背後から不意に声が掛かった。

「……何か、御用ですか?」低く、耳に馴染んだ、静かな声。

澄子の背筋が、凍りついたように伸びた。振り返る動作が、まるでスローモーションのように感じられる。

そこには、白衣を纏った佐伯司が立っていた。胸ポケットには、整然と並んだ六本の真新しいペン。

両手をポケットに深く差し込んだまま、彼は射抜くような瞳で、静かに澄子を見下ろしていた。

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