
余命わずかな私は、冷徹な元彼に最後の嘘をつく
章 3
社長室の空気は重く淀み、息苦しいほどの緊張感に満ちていた。
私は部屋の中央に立たされ、判決を待つ罪人のように二人を見上げさせられていた。
翔一は革のソファに深く腰掛け、その隣には新しいグラスを手にした冴子がぴったりと寄り添っている。
力関係は明白だった。
彼らは支配者であり、私はただの侵入者。汚点に過ぎない。
「謝れ」
翔一の声は低く、絶対的な命令として響いた。
「土下座しろ。床に額を擦り付けて、誠心誠意、冴子に許しを請え」
私は自分の耳を疑った。
土下座?
何のために?
私はただ書類を持ってきただけで、水をこぼしたのは彼女自身なのに。
「……私は、何もしていません」蚊の鳴くような声で囁いた。
「まだ嘘をつくの?」冴子は冷たく、乾いた音を立てて笑った。「翔一、見て? 彼女、全然反省してないわ」
「聞こえなかったのか、美咲?」翔一が私を睨みつける。
「お前がやったかどうかはどうでもいい。冴子が不快な思いをした。それが全てだ」
真実は無関係だった。
彼にとって価値があるのは、冴子の機嫌を損ねないことだけ。あるいは、かつての恋人を踏みにじることに歪んだ優越感を見出しているのかもしれない。
「謝らないなら、今すぐ荷物をまとめて会社を出て行け。退職金など一銭も期待するなよ」
それは死刑宣告だった。
貯金はない。新しい仕事を探す気力もない。保険もなく、給料もなければ、医療費の支払いに押しつぶされる。私はただ野垂れ死ぬだけだ。
鉄の味がするほど唇を噛み締めた。
プライド?
死にゆく者にプライドなどという贅沢は許されない。それは生き残るための障害でしかない。
私は膝を折った。
冷たい床の感触が服を通して肌に伝わり、身震いする。あの事故で両親が死んだ日、親戚に頭を下げて助けを求めた日のことを思い出した。
全く同じだ。
世界はいつだって弱者に残酷だ。
「……申し訳ありませんでした」額を床に押し付け、震える声で言った。
「聞こえないわ」冴子がクスクスと笑う。「もっと大きな声で言えないの? 心を込めて」
鋭く息を吸い込んだ。肺が痛み、喉が塞がったように感じる。
「冴子様! 不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
叫んだ瞬間、頭上から冷たいものが降り注いだ。
バシャッ!
水だ。
冴子がグラスの中身を私の頭にぶちまけたのだ。
氷のような滴が髪を伝い、顔を濡らし、床に滴り落ちる。
「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃった」
謝罪の色など微塵もない声だった。
顔を上げることができない。私は濡れて、惨めで、哀れだった。
翔一はどうしているだろう?
恐怖に駆られ、ゆっくりと視線を上げた。彼はただ私を見下ろしていた。表情は凍りついたままだ。
彼は止めなかった。
怒りもしなかった。
道端の小石に向けるような無関心さで私を見ていた。そしてその目は、何よりも私を傷つけた。
彼はこれを容認しているのだ。
この屈辱を。この暴力を。
「翔一、行きましょう。服が汚れちゃうわ」冴子が甘ったるい声で言った。
翔一は頷いた。「ああ。行こう」
二人は立ち上がり、床に蹲る私を残してドアへと向かった。
翔一の背中が遠ざかっていく。
かつて、その広い背中は私を守る盾だった。
今、それは拒絶の壁でしかなかった。
「……片付けておけ」
去り際に投げ捨てられた言葉が、私の心に止めを刺した。
ドアが閉まる音が銃声のように響く。
部屋に静寂が戻った。私は一人、濡れた服で震えながら残された。
涙は出なかった。
心が痛みを処理する機能を停止してしまったのかもしれない。
機械的に立ち上がり、ハンカチで床を拭き始めた。
これが私の現実。
これが私の選んだ道。
彼を愛した代償がこれなら、受け入れるしかない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
そこに立っている女はただの抜け殻だ。
私の魂は、冷たい床に滴り落ちる水と共に洗い流されてしまったのだ。
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