
すでに別の男の妻なのでお構いなく
章 3
白石凛子が気を失うのを見て、店長が大声を上げた。「奥様!」
次の瞬間、店長よりも素早く飛び出した人影が、凛子のもとへ駆け寄った。そして彼女を抱きかかえ、慌ただしく去っていく。
その高くたくましい背中は、相沢蓮司以外の何者でもなかった。
結城紗良は自嘲気味に口角を上げた。
蓮司が車に乗って行ってしまったため、彼女は自分でタクシーを拾って帰るしかない。
だが、ディーラーの周辺ではなかなか車が捕まらなかった。
紗良はハイヒールで丸1時間歩き続け、ようやく配車アプリでタクシーをつかまえた。
後部座席に乗り込み、水ぶくれのできた足を見つめる。
そして、ふっと息を吐いた。
足が痛いだけで、心が痛まないのがせめてもの救いだった。
……
カーディーラーでの一件以来、紗良は数日間、蓮司と顔を合わせていなかった。
だが、わざわざ彼の動向を調べる必要はない。
凛子がご丁寧に報告してくるからだ。
「9:05 今日は蓮司お兄ちゃんが直接お粥を飲ませてくれたよ」
「18:23 これは蓮司お兄ちゃんが剥いてくれたグレープフルーツ。すごく美味しそうでしょ?食べたい? ふふっ、あなたは一生食べられないだろうけどね」
その下には、綺麗に剥かれたグレープフルーツの写真が添えられている。
「22:35 蓮司お兄ちゃん、私の隣で寝てるよ。えへへっ」
その下には、蓮司が凛子のベッドの傍らで腕枕をして眠っている写真があった。
「……」
紗良は一瞥しただけで、スマホをバッグに放り込んだ。
もう感覚が麻痺してしまったのだろう。ここ数日、凛子から送られてくる自慢話を見ても、ただ滑稽なピエロのショーを見ているような気分にしかならなかった。
車のドアを開けて降り、紗良はLSメディアエンタメのオフィスビルへと足を踏み入れた。
この会社は、彼女と蓮司が共同で立ち上げたものだ。
当初は、蓮司との繋がりをより強固にするためだった。
そうすれば、彼も簡単には別れを切り出せないだろうと考えていた。
まさか、それが結果的に自分を縛る鎖になるとは思ってもみなかった。
会社の副社長である中村祐也は、驚いた顔で紗良に尋ねた。「君1人で蒼南市を離れて、京都に戻るって?相沢蓮司はそのことを知ってるのか?」
紗良は首を振った。「まだ彼には話していないの。悪いけど、内緒にしておいて」
祐也は頷いたものの、やはり信じられない様子だった。「もちろん、それは構わないけど。君は相沢蓮司のことが大好きだったんじゃないのか? 離れるなんて、本当にいいのか?」
紗良は蓮司を追いかけて、丸7年も尽くしてきたのだ。
まさに、一番良い時期を全て彼に捧げたと言っても過言ではない。
紗良は淡々と答えた。「ええ、もう彼はいらないわ。私がここを発った後、会社の株式分割の手続きはあなたにお願いしたいの。面倒をかけるわね」
祐也はうつむき、瞳の奥に浮かんだ喜びの色を隠した。「そんなに水臭いことを言わないでくれ。君は俺の後輩だろう。俺がLSメディアエンタメに入れたのも、君が強く推薦してくれたおかげなんだから」
紗良は感謝の眼差しで祐也を見つめた。
会社の実質的なオーナーは彼女だが、実際に実務を回してきたのは常に祐也だった。
彼がいなければ、会社はとっくに倒産していただろう。
最後に社内をぐるりと見回り、紗良はようやくビルを後にした。
祐也は自ら1階まで彼女を見送り、車が遠ざかって見えなくなるまで名残惜しそうに見つめてから、オフィスへと戻っていった。
……
道中。
紗良はスマホを取り出し、メモ帳から下から2番目のタスクである「会社の株式分割」に取り消し線を引いた。
そして、最後のタスクへと視線を落とす。
――千葉町の家を出る。
千葉町の家を出れば、彼女と蓮司の関係は完全に終わる。
紗良は無言でハンドルを握り続けた。
車内の空気は重く沈んでいた。
千葉町の別荘に着くと、彼女はまっすぐ2階へ向かった。
家で働く使用人たちは、彼女が帰ってきてもまるで空気のように扱い、誰1人として挨拶に来なかった。
蓮司が彼女を全く愛していないことを、誰もが知っているからだ。
彼女がここに住み始めてからというもの、蓮司はほとんど帰ってこなくなった。
紗良はゲストルームに入った。
彼女と蓮司は寝室が別なのだ。
クローゼットには、有名ブランドの服がぎっしりと詰まっている。
全て蓮司からの贈り物だ。
しかし、紗良はもうそんなものに興味はなかった。
彼女は身をかがめ、自分のスーツケースを引っ張り出した。
荷造りをしていると、階下から車のクラクションが聞こえた。
「相沢社長……」
「相沢社長……」
「相沢社長……」
玄関の方から、次々と恭しい挨拶の声が響いてきた。
蓮司が帰ってきたのだ。
紗良は慌ててスーツケースを押し込んだ。
自分がこの家を出て行くことを、彼には知られたくなかった。
なんとか片付けを終えて顔を上げると、ドアの前に立つ長身のシルエットが目に入った。
男の顔には疲労が滲んでいたが、廊下の温かな照明に照らされた端正な顔立ちは立体的で完璧であり、まるで芸術品のようだった。
紗良は思わず息を呑んだ。
蓮司は鋭い視線を向け、すべてを見透かすように尋ねた。「何をしているんだ?」
紗良はスーツケースの前に立ち塞がるようにして答えた。「探し物よ」
蓮司はそれ以上疑うことなく、部屋の中へ入ってきた。
「ここ数日忙しすぎた。さっき悠真に確認したが、19日は空いている。その日に婚姻届を出しに行こう」
またしても、事後報告のような口調だ。
紗良は少し顔を上げて言った。「19日は私の誕生日よ」
その瞬間、蓮司の瞳の奥に一瞬だけ戸惑いの色がよぎるのを彼女は見逃さなかった。
「その日はもう予定があるの」
「お前は今まで、誕生日なんか祝ったことないだろう?」
ーーあなたと一緒に過ごしたくないだけ。
その言葉を、紗良は結局飲み込んだ。
「なら、また別の日にしよう」 蓮司はネクタイを緩めながら言った。
30分後、男はバスルームの湯気とともに姿を現した。
腰にバスタオルを1枚巻いただけの姿だ。
水滴が胸板を伝い、綺麗に割れた腹筋へと滑り落ちていく。
かつての紗良なら、その肉体美を見て心の中で悲鳴を上げていたはずだが、今は何の魅力も感じなかった。
蓮司は、うつむいてスマホをいじっている紗良を見下ろした。
端正な眉がわずかに寄る。
以前なら、彼が筋肉を見せるだけで、紗良はすぐに駆け寄ってきて嬉しそうに抱きついてきたはずだ。
「寝るぞ」 蓮司は短く告げ、部屋の明かりを消した。
紗良は暗闇の中で立ち上がり、静かに言った。「私は自分の部屋に戻るわ」
蓮司は眉をひそめ、ドアが開いて再び閉まるのを見つめていた。
部屋は再び闇に包まれる。
彼の心の奥底に、得体の知れない焦りが一瞬だけよぎった。
だが、それはすぐに押し殺された。
(そんなはずはない。)
(何も起こるはずがない。)
……
それからの数日間、紗良が蓮司と顔を合わせることはなかった。
祐也の話によれば、どうやら出張に行っているらしい。
祐也自身も彼と連絡が取れない状態だった。
以前の紗良なら、これは決して良い知らせではなかった。
だが今の彼女にとっては、これ以上ないほどの朗報だった。
蓮司が不在の隙に、千葉町の家で荷物をまとめることができるからだ。
千葉町の家に彼女の荷物はそれほど多くなかった。
大半は彼女が蓮司のために買ったものだ。
ペアウォッチ、服、クマのぬいぐるみ……。
だが、どれも蓮司から「子供っぽい」と切り捨てられ、クローゼットの奥底に追いやられていた。
彼女はそれらの贈り物を1つ1つ取り出し、スーツケースに詰め込んだ。
そして、パンパンに膨れ上がったスーツケースを引きずり、千葉町の家を後にした。
それを見た使用人も、彼女が出張にでも行くのだろうと思い込み、何も尋ねなかった。
あっという間に19日がやってきた。
紗良は全ての手続きと準備を完璧に終わらせていた。
あとは20日を迎えて、この街を去るだけだ。
夜。
紗良は1人で中心街のケーキ屋に立ち寄り、公園の適当なベンチに座って、小さなケーキを少しずつ平らげていった。
ケーキはとても甘かった。
そして、途中で蓮司が席を立ってどこかへ行ってしまう心配をする必要もなかった。
彼女は漆黑の夜空を見上げ、口元に薄く笑みを浮かべた。
その時だった――。
ドーンという音とともに、花火が打ち上がった。
色鮮やかな花火が夜空で交差するように弾け、まるで真昼のように空全体を明るく照らし出した。
どれくらい時間が経っただろうか。紗良の首が痛くなる頃、花火大会はようやく幕を閉じた。
その直後、スマホが短く震えた。
紗良はスマホを取り出し、画面に目を落とした。
蓮司からのメッセージだった。
「花火、気に入ったか? 誕生日おめでとう!」
紗良の視界が瞬時にぼやけた。彼女は今まで、蓮司から「誕生日おめでとう」なんて言われたことは1度もなかったのだ。
まさか、去る直前の最後の日に、その言葉をもらえるなんて!
彼女はメッセージアプリを開き、「ありがとう」打ちかけた時、別の通知が表示された。
1枚の写真。
凛子からのものだ。
紗良が開いてみると、そこには手作りの料理が写っていた。
「蓮司お兄ちゃんが作ってくれたご飯だよ。今日があなたの誕生日だって聞いたから、わざわざ彼にお祝いの手料理を作ってもらったの。えへへっ、私にはお祝いがあるけど、あなたにはないね!主役なのに可哀想!」
紗良の瞳に浮かんでいた涙は、一瞬にして乾いた。
彼女はLINEを開き、蓮司のアイコンをタップしてメッセージを打ち込んだ。「あなたが作ったお祝いの手料理が食べたいな」
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