
氷の帝王の執着:逃げられない契約結婚
章 3
あれから五年。
街に流れる曲も、人々が画面越しに追うドラマも、すっかり入れ替わっていた。それでも——あの豪雨の夜のことは、まだ昨日のように凛の骨の奥に残っている。
東京六本木。
けばけばしいネオンが夜の闇を切り裂く街。
北野凛は安物のサングラスをかけくたびれた私服に身を包み一台のロケバスから降り立った。
マネージャーの加藤リナが苛立った様子で彼女を急かす。
「ぐずぐずしないで! 有名な監督に会わせてあげるって言ってるでしょ」
リナに連れられ凛は重低音が腹に響く地下のクラブへと足を踏み入れた。
リナは慣れた様子で人混みをかき分け店の奥にある薄暗い廊下へと凛を導く。
廊下の突き当たりには錆びついた鉄の扉があった。
リナは「ここで待ってて」とだけ言い凛に入るよう促した。
凛が黴臭い部屋に一歩足を踏み入れたその瞬間。
背後から強い力で突き飛ばされた。
よろめきながら暗闇の中に倒れ込む。
直後ゴンッという重い音と共に鉄の扉が外から施錠された。
「リナさん! どういうこと!」
凛はすぐに立ち上がり冷たい鉄の扉を力強く叩いた。だが返事はない。
凛は自分を落ち着かせようと深く息を吸った。耳を扉に押し当てるとリナが誰かと電話で話している声が微かに聞こえてきた。
「はい雅様、おっしゃる通り倉庫に閉じ込めました、これで今夜のオーディションには出られません」
北野雅。
その名を聞いた瞬間凛のサングラスの奥の瞳に氷のように冷たい殺意が宿った。
この五年間心の奥底に押し殺してきた憎悪が静かに鎌首をもたげる。
やがて廊下の足音は遠ざかっていった。
助けは来ない。凛はサングラスを外し自力での脱出を決意した。
ポケットからスマートフォンを取り出すが地下の倉庫では電波が届かない。
「圏外」の非情な文字が浮かび上がるだけだった。
スマートフォンのライトを点け周囲を照らす。
そこは打ち捨てられた酒の木箱やガラクタが山積みにされた行き止まりの空間だった。
足元の空き瓶を蹴飛ばしながら凛は他の出口や通気口がないかを探す。その動きにはもはや五年前の無力な令嬢の面影はなかった。
不意にライトの光が隅に積まれた古い帆布を捉えた。
その下からごそごそと何か微かな物音がする。
凛は瞬時に身構え近くに転がっていた折れた木の棒を手に取った。
足音を忍ばせ帆布に近づく。
一気に帆布をめくり上げた。
だがそこにいたのはネズミではなかった。
埃まみれの高級そうなスーツを着た小さな男の子が体を丸めて震えていた。
男の子――リクは木の棒を構えた凛を見て怯えた子鹿のような瞳で体を強張らせる。必死に壁際へとにじり寄るが声は一切発しない。
凛は一瞬動きを止めすぐに手にしていた木の棒を放り投げた。
そして彼を驚かせないようにゆっくりとしゃがみ込む。
「坊やどうしてこんなところに?」
できる限り優しい声色で問いかけた。
リクは固く唇を結んだままただ首を横に振るだけだった。その瞳には大人に対する強い警戒心が浮かんでいる。
凛はリクの顔色が異常に赤いことに気がついた。
彼の額に触れようと手を伸ばすがリクはびくりと体を引いてそれを避ける。
凛は無理強いせず安全な距離を保ったままふと優しい日本の童謡を口ずさみ始めた。
聞き覚えのある穏やかなメロディーにリクの体の震えが奇跡のように少しだけ和らいだ。彼は恐る恐る顔を上げ凛のことを見つめる。
その隙に凛はゆっくりと近づきそっとリクの額に手を当てた。
指先に伝わってきた燃えるような熱さ。
凛は息を呑んだ。この子はひどい高熱を出している。
「大丈夫よ」
凛は自分の着ていた安物のジャケットを脱ぐとわずかに抵抗するリクを構わずその中に包み込み強く抱きしめた。
凛の腕の温かさとふわりと香る優しい匂いにリクは次第に体の力を抜いていった。そして小さな手で凛の服の裾をぎゅっと握りしめる。
凛はリクを抱き上げたまま立ち上がった。
その瞳には鋼のような決意が宿っていた。
この子をこんな場所で死なせるわけにはいかない。
スマートフォンのライトで再び倉庫の中をくまなく照らす。
やがて地上から三メートルほどの高さに埃を被った小さな通気窓があるのを見つけた。
腕の中で苦しそうに息をするリクを見下ろし凛は固く奥歯を噛み締めた。
極めて危険な賭けになる。
だがやるしかなかった。
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