
パパはいらない、二人で
章 2
浅沼杏梨 POV:
美羽を幼稚園に送り届けた後, 私はまっすぐ法律事務所に向かった.
弁護士のデスクには, 七年前に陽生が用意した離婚協議書が置かれていた. 薄い紙一枚が, 私たちの結婚のすべてを物語っていた.
「この協議書は, まだ有効ですか? 」私の声は, 驚くほど冷静だった.
弁護士は眼鏡の奥から私を見た. 「はい. 署名があれば, いつでも有効です. 」
私たちの結婚は, 最初から「条件付き」だった. 陽生が春奈への当てつけで私を選んだように, この離婚協議書も, 彼がいつでも私を捨てられるように用意されていたのだ. 彼の署名は, 七年前と変わらず, 力強くそこにあった.
私は震える手でペンを取り, 自分の名前を書き込んだ. 躊躇いはなかった. むしろ, 解放されたような感覚さえ覚えた.
「これで, お願いします. 」私は弁護士に書類を渡し, 静かに言った.
弁護士は書類を受け取り, 「承知いたしました. ご依頼通り, 手続きを進めます. 」と答えた.
「書類の送付先は, 現在の住所でお願いします. ただし, 私たちが引っ越す可能性もあるので, その際は改めて連絡します. 」
唇を噛み締め, 膝の震えを必死で抑えた. 目頭が熱くなったが, 泣くものかと思った.
私は陽生を深く愛していた. この結婚を, なんとか本当の家族にしたくて, ずっと努力してきた. しかし, 彼の冷たい態度は, 私の心に少しずつヒビを入れていった.
そして, 春奈の帰国. それは, 私にとって最後の希望を打ち砕くものだった. 私は, 陽生にとっての私の役割が, もう終わったのだと悟った.
その日の午後, 私はショッピングモールで買い物をしていた. ふと見ると, 陽生がいた. 隣には, 春奈とその息子がいた.
春奈は相変わらず美しく, 陽生の隣で輝いていた. 陽生は, 春奈に優しい目を向けていた. あんな顔, 私には見せたことがない.
そして, 陽生は春奈の息子を抱き上げていた. その目に宿る慈愛は, 美羽に向けられたことのないものだった.
私がずっと夢見ていた, 陽生と美羽が手を取り合う家族の光景. それが, 今, 別の女性と別の子供とで実現されていた.
私はその場に立ち尽くし, 涙がとめどなく溢れた. これ以上は耐えられなかった. 彼らに気付かれないよう, そっとその場を後にした.
家に帰ると, 私はすぐに履歴書を更新し, 海外の企業に求人メールを送った. 新しい人生を始める準備を始めた.
翌日, 私は辞職願を携え, 会社に向かった. この会社は, 陽生と出会った場所だ.
結婚後, 私は優秀なインテリアデザイナーとしての道を諦め, 陽生の秘書から一般社員へと降格されていた.
淡々と退職手続きを済ませ, 私物を片付けていた時だった.
会社のロビーが騒がしくなった. 陽生と春奈が, 社員たちに囲まれて入ってきた.
春奈は完璧なビジネススーツに身を包み, 自信に満ち溢れていた. 陽生は彼女の隣で, まるで誇らしげな夫のように振る舞っていた.
彼の視線は, 春奈から離れることがなかった. 私の存在など, 最初から彼の視野に入っていなかったかのように.
私の心臓が, 鉛のように重くなった.
陽生と春奈は, 私の目の前で立ち止まった. 部長が嬉しそうに言った. 「浅沼さん, 大滝さんがあなたの後任となり, あなたは別の部署に異動になります. 」
陽生は部長の言葉を否定しなかった. 彼は春奈を, 私の後任として受け入れたのだ.
私は痛みで拳を握りしめた. 彼の名前を呼びたかったが, 彼の冷たい視線が私を止めた.
陽生は冷酷な声で言った. 「公私混同はしてほしくない. 大滝さんの方が, このポジションに適任だ. そして, 私の人生にも. 」
私の心は完全に打ち砕かれた. しかし, 私は感情を表に出さなかった. 震える手で春奈と握手し, 笑顔さえ見せた.
陽生は満足そうにその光景を見ていた. 彼の目に宿る春奈への優しい光が, 私を深く傷つけた.
愛されていることと, そうでないことの差は, これほどまでに残酷なものなのか. 私はもう, 彼に何も期待していなかった.
その夜, 春奈が入社パーティを開くと言ったが, 私は辞退した.
「ごめんなさい, 娘を迎えに行かなくてはならないので. 」
春奈はわざとらしく心配そうに言った. 「あら, 上杉秘書も大変ね. 上杉社長にお願いしたらどうかしら? 彼はきっと喜んでくれるわ. 」
私は冷たく答えた. 「私には, 夫なんていないわ. 」
私の胸が, チクリと痛んだ.
春奈はすぐに表情を取り繕い, 「あら, ごめんなさい. でも, せっかくだから, 美羽ちゃんも連れていらっしゃらない? うちの蓮と遊べるわよ. 」
その時, 美羽が突然ロビーに現れた. 「ママ! 」
私は驚いた. 陽生が美羽の幼稚園を知っているはずがない.
陽生も美羽の姿に気付き, 驚いた表情をしたが, すぐに視線を春奈に向けた.
春奈は陽生に尋ねた. 「陽生さん, この子, あなたの娘さん? 」
陽生はぶっきらぼうに答えた. 「ああ, 偶然会っただけだ. 以前, 一度会社に来たことがある. 」
美羽は「パパ」と呼びかけたが, 私の目を見て, すぐに口を閉じた.
春奈は私に向き直り, 笑顔で言った. 「浅沼さん, 部署異動, おめでとうございます. これで, 寂しいシングルマザー生活も少しは楽になるでしょうね. 」
陽生は一瞬躊躇したが, 春奈の言葉を否定しなかった.
春奈は満足そうに微笑んだ. 陽生と彼女の間には, 私たちが入れない特別な空間ができていた.
美羽は私の服の裾を強く掴んだ. 彼女の小さな体が震えているのが分かった.
美羽は陽生に向かって, 「おじさん, 蓮くんをいじめないでね! 」と, 突然叫んだ.
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